龍神の説法

【 小欲知足の生活 】

机の上にある置物をみせて、訪れる人によく話しをすることがあります。それは、私自身を戒めるために、石庭で有名な京都の龍安寺へ行ったときに買ってきた置物で、水戸黄門光圀公が、時の住職に贈ったという{つくばい}の模型です。

実物を見たのは、二十年も前のことで、記憶もかなりうすれていますが、お茶のときに使う水が湧き出るために、直径三尺ぐらいの円形の石のなかに、四角い穴を穿ち、その右まわりに{吾・唯・足・知}の四文字を形どってあります。

この四文字を、何と読みますか。ある人は{京都見物にでかけて、足が痛くなっただけなのを知った}と、笑うに笑えない話しもありますが、一般には{われはただ足るを知る}または{われただ足ることを知る}と解します。足るというのは、満足という意味です。

読むことはできても、言葉の本当の意味を知ることは、大変むずかしいことです。そこで{満足}と{不満足}について考えてみましょう。

もちろん、人間には、欲があるからこそ生きている。といえるかもしれないが、その欲にも限界が必要だということを、他人事として考えれば、すぐわかることですが、自分のことになると、わからないから不思議です。

たとえば二日酔いで苦しむのは、まだしも愛敬のある方で、必要以上に立派な家を欲しがったために、ローンの支払いに追われて自殺した人は、悲惨ながらも自業自得といえるでしょう。また自分の物だけでは足りず、他人の物まで欲しがったために、強盗や殺人まで犯すとなれば、身の破滅どころか一族のよい迷惑です。

{仏遺教経}には、{知足の者は、賎しといえども富めり。不知足の者は、富めりといえども賎し}とあります。すなわち、満足を知った人は、物質的に貧乏であっても、それはお金持ちと同じである。逆に満足を知らない人は、その身がお金待ちであっても、それは貧乏人と同じである。と説きます。

懺悔文のなかに、{我昔所造 諸悪業 皆由無始 貪瞋癡(とんじんち)}とあります。これは{私が昔から造って来たいろいろな悪い行いは、私の心のなかに、いつできたかわからない、生まれながらにそなわっている貪・瞋・癡によるものである}と解し、悪業のもとになる一つに{満足を知らない貪り(むさぼり)}をあげて、戒めています。

ついでに今一つ、{十善戒}のなかでは、
不慳貪(ふけんどん)
不瞋恚(ふしんに)
不邪見(ふじゃけん)
この三つを心の戒めとしています。

思いますに、{満足に思うこと}それがそのまま{ありがたい}と思う{感謝}につながります。さらに、感謝の心は{恩にむくいる}という{報恩}となり、その心が積極的に働きだすとき{奉仕}となり、他人への{施し}となって、浄化されていくのです。 このことが、幸せな日常生活を得る第一歩になるのです。

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