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2017年09月07日大日乃光第2186号
心を清めて願い事を叶え周囲を照らす灯を輝かそう

皆さんこんにちは。今日は護摩を焚いてる時期としては一番暑かったんじゃないでしょうか。その暑さに重ねて護摩を焚きました。
 
ここで護摩というのはそもそも何なのかを少しお話し致します。ごく初歩的な内容ですが、意外にご存知ない事かもしれません。
 
人々の願い事に寄り添ってきた インド古来の聖なる火の儀式
 
そもそもこの「護摩」という文字は完全な当て字です。護摩の「摩」が仮に「魔」であれば、「魔から護る」と意味が通りますが、『般若心経』の「般若」と同じように、これは「ホーマー」という古代インド語の意味を訳さずに音だけをそのまま音訳したわけです。
 
そもそもこのホーマーは、実は佛教の作法ではなかったのです。佛教成立以前の古代インドにおいて人々の祈りや願いを受け入れていたのはバラモン教(後のヒンドゥー教)の神々でした。
 
その中に火の神様、火天がありました。他にも水天、風天、地天、日天、月天と、天地自然の様々な要素に神々を見出していたのです。ここは日本人の宗教観と少し似ています。
そして願いを叶えるために火天に祈り、そこに様々なお供え物をしました。
 
こういうのはインド古来の宗教に限らず、様々な民族の中で宗教的な儀式として、聖なるものにお供えをするという行為が行われてきたのです。
 
宗教の「宗」という漢字は古代中国の象形文字が元ですから、その字形に元の意味が表されています。
 
宀(ウカンムリ)は屋根で、その下に丁字が描かれています。これはお供えするための台で、三宝(お供え物を載せる台)のようなものです。その上にお供えするものが載っています。
 
犠牲の字からも伺えるように、古代中国では神様に動物を殺してお供えしたので、台の左右に血の滴る様子が「示」の形に表されているのです。

皆聖なるものにお供えをして願いを叶えたいと思ったのです。それは子孫の繁栄であったり健康であったり、民族の繁栄や発展などを祈ってきたわけです。
 
その時に古代インドでは火を燃やし、色んなものを火にくべて天に届け、願い事がどうか叶いますようにと祈りました。日本にも佛教が入ってくる前から、神様に祈る時に火を燃やして儀式を行う神事があったと思われます。
 
人間と動物の一番大きな違いは、火を恐れずに生活に活かす事です。その火を儀式に使う事で、火を不思議な力を持つものとして印象付けると共に、人々の心を非常に引き寄せる心理的効果があったのでしょう。
 
聖なる火の儀式から護摩祈祷へ 佛教による「換骨奪胎」とは?
 
古代インドの人々はこの様な「ホーマー」(護摩)で、色んな願い事や祈りをしていたわけです。それを佛教が、より広く多くの人びとを信仰に導き入れるために取り入れました。
 
詳しく言えば、まず土を耕し、神聖な動物とされる牛の尿をまいて大地を清め、そこに炉を築きます。その中にさらに曼荼羅を描いてその上で護摩を焚くという儀式でした。
 
今から十二年前にダライ・ラマ法王猊下が当山にお越しになった時に、護摩を焚いて頂きました。準備段階から拝見すると、やはり炉の中に曼荼羅を描く作法があり、チベット佛教の方が日本以上にインドの伝統をきちっと受け継いでいるという事がよく分かりました。
 
そこで一番肝心な事ですが、実は佛教では願いを叶える事は副次的、二次的な事柄なのです。佛教の一番大事な極意は、①悪い事をせず②良い事をなし、そして③自分の心を清める事、この三つです。
 
この自分の心を清めていくというところに護摩を活かしたわけです。護摩の炉は、小さな薪にも組み方が決まっていて、一番最初に食欲や性欲、睡眠欲などの根本煩悩を象徴する檀木(薪)を炉の中央に入れます。それに次いで色んな形に薪を組んでいきます。要は薪を自分自身の煩悩に見立て、佛様の智慧の火で焼き尽くすというわけです。
 
その前にもっと大事な瞑想があります。どういう瞑想かと言えば、佛様と自分とそして護摩の炉、この三つが本来平等であると観想(瞑想)します。具体的には、佛様の実態は智慧の火であり、自分自身の智慧の火と同じであり、炉の口は佛様の口であり自分の口でもあり、その口から出てくる炎は自分の中にある智慧の火でもあると瞑想します。
 
 
この佛様と炉と自分の三つが同体であるという瞑想に入らなければ、佛教の密教の護摩にはならないのです。瞑想を抜きに護摩を焚けば、それはヒンドゥー教の護摩(ホーマー)と一緒になってしまいます。
 
さらに薪を煩悩に見立てて煩悩を焼き尽くす、つまりマイナスを取り去ると同時に、それがひいては願い事を叶える事にも繋がっていく。そういう方便と言うか、心構えで護摩行を修するのです。
 
「換骨奪胎」という言葉があります。表面的には全く同じ形に見えて、実は骨を入れ換えて魂も入れ替え、そこに佛教の魂を込めたのです。
 
願い事を叶えた後が肝心
 
そういう事が千四、五百年前にインドで行われました。その目的は、佛教の教えを人々により広く深く浸透させるためでした。護摩を焚くというヒンドゥー教と同じ作法をとることによって、人々に佛教でも同じように祈る事ができると思わせるためでした。
 
ただしその時に佛教ではもう一つ、煩悩を焼き尽くす事が大事だということを、形を通じて、説法を通じて、また僧侶達の生き方を通じて、一緒に伝えていったわけです。

願い事を成就するという事だけでしたら、これは佛教ではなくなるんです。ですから時にはこういう話もしなければいけません。
 
しかし人間というものは願いを叶えて頂きたいという時に、より真剣な気持ちで祈ります。家内安全・病気平癒・健康増進・開運祈願等々…人びとの願いは尽きません。その気持ちはよく分かります。そして真剣に祈って願いが成就すると、何か偉大な力を実感し、人は謙虚になります。
 
それと同時に、その願いが成就した暁には、その結果としてこれからどのように生きるべきなのか?という事が大切です。お陰で佛様のお恵みを頂いた。お恵みを頂いたら頂きっぱなしではいけないな、何かお返ししなければ、何か恩返ししなければという気持ちが自然に湧き起こってくるはずです。
 
その時に佛教では、他人に対して施しをしなさいとか、社会に奉仕しなさいとか、様々な具体的な良き生き方を示しています。
 
心を綺麗にするためのお参り
 
私達真言宗の僧侶は外に現れる形ある護摩を焚く時以外にも、瞑想の中で「火生三昧」に入って修す「内護摩」を修します。

火生三昧と言うのは自分自身が燃え盛る炎そのものになりきるという瞑想で、その中で色んな煩悩を焼き尽くしながら、それと同時に様々な願いが叶うように、私の毎朝の御祈祷はこの内護摩として行なっています。
 
「先祖追善護摩供養」や「病気全快護摩祈祷」という言い方をします。これも護摩祈祷ですから実際に護摩を焚いて修しますが、日常的に修する場合は内護摩として焚き、炎の中で自分自身が護摩の炉になり炎となって、人々の願いを浄化しながら叶えて行くという祈祷であり供養なのです。
 
ですから皆さん達はお願い事をする時には、いつもただがむしゃらに「お願いします」「お願いします」と思いながら『般若心経』などを唱えるのではなく、まずは心を綺麗にする事を心がけて下さい。
 
要するにお経は淡々とお唱えし、その一番最後の「廻向文」の所で初めて「どうかよろしくお願いします」と静かに祈って下さい。
 
具体的な願い事をずっと心の中に抱えながらお参りするのは、これはあまりよろしくないのです。却って精神的に追い詰められたり、良くない低級霊が憑く事があるのです。
 
皆さん達が本堂でお参りする時には自分の心が淡々と綺麗に澄んでいくような、そういう気持ちになるように努めながらお参りをして頂きたいと思います。その事が皆さん達にとっては、護摩は焚いてなくても自分の煩悩を清めて行くという事に直接繋がって行きます。
 
御縁日には、皆さん達も実際に炎を見つめながら自分の中の煩悩が燃え尽きて行く、有り難いなーとそういう思いを一緒に持ちながらお参りして頂ければ、それがそのまま護摩の行になってくるわけです。
 
どうか自分自身でこの本堂に来てお参りされる時も、自分の家庭でお参りされる時も、佛様の智慧の火で心の中の煩悩を焼き尽くして頂く事を思って下さい。
 
一隅を照らす灯になろう
 
願い事を叶えるためには、自分自身の心を綺麗にする事が何と言っても一番大切です。

精神的な成長が止まったままで願い事が叶った時に、人はその願い事や叶った結果をどのようなことに使うでしょうか?必ずしも良い事をするとは限りません。権力を得た結果、その権力を悪用する事もありうるわけです。
 
そうではなく、少しでも願い事が叶い、そして前に進んで行くという事は、自分自身が少しでも周りを照らす灯になって行かなければならないという事なのです。

一人びとりがその地域やその家庭で、周りを灯す光になっていく。そういう気持ちを持ちながら、様々な願いを成就して行って頂きたいと思います。合掌




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