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大日乃光






大日乃光

2018年08月08日大日乃光第2215号
二十六年前の盛夏に実現された先代真如大僧正様の偉業

先代の衣を身に纏い蓮華院の歴史を振り返る
 
先月と今月はお盆の月です。そういう中で、ふと私自身の父母や祖父母の事、川原家の先祖の事を朝から色々思っておりました。
 
先々月から十三日には夏の赤い衣を着るように致しました。一つは大僧正位を頂いたので気持ちを切り替えようという事もあります。この衣は、実は先代の真如大僧正様が作られて着用しておられたものです。同じように、五月十二日の落慶法要では開山上人様の衲衣を着ておりました。
 
そして来たる奥之院大祭には、大僧正拝命の記念にと、信者の皆さん達それぞれ思い思いの浄財を集めて作って頂いた衲衣を身に着ける事になっています。今回は父の衣を着て、二十六年前の事を少しお話ししたいと思います。
 
数奇な由緒が刻まれた本院の梵鐘
 
二十六年前の七月十二日に、本院の梵鐘を玉名駅から本院まで牛車で牽く儀式を厳修致しました。それから少し遡る七月八日に先代が遷化された直後の事でした。実はその一年程前に、かつて蓮華院(旧浄光寺)にあった梵鐘の拓本が佐賀の博物館で見つかり、先代は大変喜んでおられました。
 
それは蓮華院で七百年程前に造られ、約五百年前に地元豪族同士の争いで隣町の荒尾側に戦利品として持ち去られた梵鐘に刻まれた銘文です。玉名と荒尾の間で争われましたが、実は背後に大友氏や龍造寺氏などの大きな勢力があって、その代理戦争だったわけです。最終的には荒尾の背後にあった佐賀の勢力(龍造寺氏)によって佐賀に持ち去られたのです。
 
まず最初に造られた時、蓮華院の昔の名前の浄光寺の名が刻まれました。次に荒尾の三宝寺に移ると三宝寺の名が刻まれ、最後に佐賀の正定寺というお寺に納まり、そこで正定寺の名が刻まれたわけです。
 
このように来歴と由緒の明らかな梵鐘でしたが、残念ながら大東亜戦争で金属が不足した時に供出されました。その日付けが昭和十七年十一月三十日という事も分かっています。その前年の十二月八日が真珠湾攻撃ですから、開戦からまだ一年も経たない内に国内では既に金属が足りなくなって、お寺に梵鐘を供出せよとの命令が出されたのです。
 
この様な事情でその梵鐘は無くなりましたが、幸いにも江戸時代に藩主の鍋島公が佐賀領内の文物を調べさせた時に、正定寺の梵鐘の三面に亘る文章が拓本に残され、それが佐賀の博物館に保存されていたのです。
 
先代はこの事を最晩年に知られて、大変喜ばれました。そしてこの梵鐘を再建する時に、その三面の文言もそっくりそのまま再現し、新たに加えた銘文と共に梵鐘に刻まれました。この再現された梵鐘を、ぜひ皆さんも帰りに見てください。
 
先代の遺言になった発願を地元と一丸となって実現
 
先代は、皇円上人の歴史と皇円大菩薩様の霊験、蓮華院の歴史を調べて確立するのがご自身の使命と思っておられました。
 
梵鐘が再建されると、まず奈良時代から鎌倉時代にかけて港だったJR玉名駅前に展示し、多くの人々にその歴史を知って頂き、その後当時の時代装束を着た人々によって、本院まで牛に牽かせて運んで頂く行事を行うことになりました。
 
その日程を決める直前です。「七月十二日はどうでしょう?」と私が相談した所、先代は佛様にお尋ねしてみようと言われ、そして「日取りはそれでよかろう」となりました。その時ちらっと「私はその式には出られんかもしれんけどな…」と言われたのです。
 
その時はどういう意味だろう?何か大事な用事が入っているのかな?などと、深く考えませんでした。そしてそれから約三ヶ月後、先代は七月八日に遷化されました。それこそ驚天動地でした。全く想像だにしていない事でした。
 
平成四年七月八日当日は仮通夜でした。けれどもその日は、梵鐘運びの最終打ち合わせの日と重なっていました。この行事は築地の区民の多くの方々に参加して頂き、その人達に鎌倉時代の武将や足軽の恰好をして頂くために鎧兜を借りる手配を整えていたのです。
 
私は仮通夜の席に留まり、宗務長をその打ち合わせ会に出席させました。皆さんからは「発願者が亡くなられてしまうとは…」「どうしようか」との声も上がりました。中には「喪章を付けて行列しようか?」と言う人もおられましたが、その頃蓮華院によく出入りされていたお世話役さんが、「これは真如大僧正様のご遺志なんだ。喪章とか付けんでいい。皆が参加してくれる事をどれほど希望しておられたか。特別な事は何もせずに予定通りに実施しようじゃないか!!」と言われて決定しました。
 
翌九日がお通夜、十日が密葬でした。そして十二日当日、私は先代に代わって本院に留まり、梵鐘を迎えました。
 
晋山式代わりとなった二つの梵鐘の打ち初め式
 
今にして思えば、夏の暑い盛りに三百人以上の人達に鎧兜を着て行列して頂くという、あの様な企画をよく成し遂げたものだとしみじみ思います。先代の同級生の方からも「これは真如君の最後の望みだったし、自分の命を懸けての発願なのだから」と、何としても盛り上げようと色んな方々が先頭に立って下さったのです。
 
普通のお寺では、代替わりの時に「晋山式(しんざんしき)」と言う、新たに住職を迎える儀式が行われます。蓮華院では中興以来三代を歴ておりますが、その晋山式は一度も行なった事がありません。
 
話は変って、昭和五十二年の十一月十三日に奥之院の大梵鐘「飛龍の鐘」の打ち初め式を発願されたのは開山上人様でした。真如大僧正様が具体的な準備を進められました。そして実際に大梵鐘の打ち初め式を導師として執行されたのは先代でした。
 
それと同じように、先代がご自分の最後の歴史的な仕事として、蓮華院の歴史の証しとなる本院の梵鐘を発願されました。しかしその打ち初め式には既にご本人は居られなくて、私が鐘をお迎えして打ち初め式を執行しました。そういう流れで言えば、まさにこの打ち初め式は、地域の人達も信者さん達も多く居られる中での、言ってみれば晋山式代わりだったという事を、有り難く実感しました。
 
自然の声に耳を傾け日本古来の感性を研ぎ澄まそう
 
今日の法要前に本堂裏の廊下で待っていると、椋の木の根元にキジバト、ヤマバトとも言いますが「ホッホーホッホー」と鳴く鳥がいました。ここ十数年、境内でも随分キジバトの姿を見かけます。朝方や夕方に鳴き声を聞きますと、何となくジーンとくるものがあります。
 
何故かと言えば、日本で最初に「生きた菩薩であった」と言われ、東大寺の大佛造立に大変尽力された行基菩薩という方が居られます。その行基菩薩がこのような歌を残しておられます。
 
〝山鳥の ほろほろと鳴く 声聞けば
     父かとぞ思ふ 母かとぞ思ふ〟
 
この歌は昔から知っていて、ヤマバトが鳴く度にこの歌が心に甦るのです。そしてあの声はひょっとしたら亡くなった父の声ではないか、母の声ではないかという歌です。まさに人間、生まれ変わり死に変わりする中で山鳥に身を変えている。今まさに父か母が自分に何かを訴えかけているのではないか、そういう和歌です。
 
これこそまさに日本人の死生観や親子の情愛などを端的に表す歌だと思います。私はヤマバトの姿を見ただけで例えホロホロと鳴いてなくてもそういう事を感じて、父が今の私を見てどんな風に思って下さるだろうかと思います。
 
あの日から二十六年経ちました。母は七年が過ぎました。時に父がやりたかった事や母の願い、そういう思いをどのように自分は受け継いで実行しているかと。ヤマバトの鳴き声を聴きながら、また虫の音を聴きながら、皆さんもご自分の両親の事、祖父母の事を思いうかべてみて下さい。 合掌




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