正直なところ、雑念だらけでなかなか集中できなかった気がする。お世話になった事は、子供の頃から現在まで食事を作ってもらい、洗濯をしてもらい、その他、身の回りの世話をしてもらった事だ。
一人暮らしの時は、いろいろな物を送ってもらったり、持たせてもらったりした。やかましい父との間にたって、私が友達と楽しい思いをするために配慮もしてくれた。
それに比べると、して返した事といえば、子供の頃に多少手伝いをしたこととか、就職してから何回かプレゼントをしたくらいのことだ。時に恩着せがましい態度の私にさえ、必ず「有難う」と言ってくれる。ご迷惑をかけたことは、大学で2度の留年をしたことだ。高校で学区外入学させるためにかかった下宿代、その他予備校の学費、私立大学の高い学費、それを2年も余分に工面してもらった。
自分の未熟な考えから学業をおろそかにし、そんな娘のために母はどんな思いで学費を工面し続けたのだろうかと思うと、申し訳なく、また、有難く思いました。
母にはよく生意気なことや不満を言っていたが、母はいつも私の味方で、私のことを自分のことよりも大切にしてくれていたことを改めて思い知らされました。
内観をするまでは、父にたたかれたとか、ひどい事を言われたという記憶の方が多く、父に対しては、憎しみや怒りの方が大きかったが、お世話になったことを調べたら、遊んでもらったり、いろいろな事を教えてもらったり、実は楽しい出来事もたくさんあったことに気付いた。
人は自分に都合のいいように記憶するものだという事を聞いたことがあるが、私は自分を被害者の立場におくためにマイナスの記憶ばかりを集めていたのかも知れない。
して返した事は、母に対してと同じように、たいしたことは特にない。それも半分は、薬剤師になってあげた、郷里に帰って来てあげたという恩着せがましい態度だったような気がする。
ご迷惑をかけたことは、2年留年したりしたこともだが、高校生の時からずっと反抗的な態度をとってきたことだと思った。今から思えば、父はとても淋しかったことだろうと思った。父は、特に身内に対して優しさを表現することが苦手な人だと思う。照れてしまうので、怒ったような表現になるのだと思う。そして、そういうところは、自分も似ていると思った。
別れた彼に対するこだわりがとれないので、父に対する2回目の内観の前に行った。お世話になったことは、とてもたくさんあって、彼の存在なしに大学は卒業できなかっただろうと思った。彼に対しても、父と同じように、私はマイナスの記憶集めをしていたように思う。
して返したことは、大学時代はそれなりにあって、楽しい思いでも少なくなかったが、最後の三年半は殆どなかったように思う。ご迷惑をかけた事は本当にたくさんあったが、やはり最後の三年半はとてもつらい思いをさせてしまったように思う。
二人の関係を壊したものは、私の子供の頃からもっていた卑屈さや劣等感、父や男性一般に対する怒りなどだったように思う。ただ、その後父への内観をしていて思ったのだが、彼とはなんとなく身体感覚が合わなかったような気がする。性格がどうこうとかいうことではなく、五感で感じるものに違和感があったような気がする。
父母への内観をしていても彼のことが頭をよぎってしまうので、2回目の父への内観の前に行なった。お世話になったことの中で一番印象的だったのは、赤いバラの花束をもらったことだ。その前に彼に教えた赤いバラの花言葉に、彼は自分の思いを託したのだろう。そのことに気付いていながら、私は素直になれなかった。やはり、ここでも自分の器の小ささに、卑屈になり劣等感を抱き、自分の正当性や優位性を主張することに終始してしまった。
して返した事は、行為としては沢山あったが、殆どが彼のペースや都合、考えや思いを無視した独りよがりのものが多かったような気がする。結局、私が何かすればするほど、彼は無力感や自分をわかってもらえない淋しさを感じるようになっていったのではないか。
ご迷惑をかけたことは、彼の亡くなった奥様のことを非難したり、彼の過ちを彼の友人に言いつけたり、相手の女性をたたいたり、たくさんあった。これも自分を優位な立場に置こうとする傲慢さや、他人を傷つけても彼を独占しようとする自己中心的な考えのせいだと思った。傍から見た私の姿はまるで般若のようだろうと思った。我欲にとらわれすぎた愚かな自分を情けなく浅ましく思った。
この一週間は私の転機になったと思います。特に父にたいする恨み、前の彼にたいする憎しみは、私の勝手な思い込み、マイナスばかり集めて、悲劇の主人公になりたがる、私の心の癖が作り上げたものだという事に気付きました。私の心が、私自身を苦しめていたのです。
これからは、できるだけ相手のいいところ、プラス面をみていけそうです。なんだか心が軽くなったような気がします。お食事もとてもおいしかったです。本当にありがとうございました。(終)
牛飼いは、春になって野原の草が芽をふき始めると牛を放す。しかし、その牛の群れの行方を見守り、その居所に注意を怠らない。人もまた、これと同じように、自分の心がどのように動いているか、その行方を見守り、行方を見失わないようにしなければならない。(パーリ、中部19、雙考経)
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