2012年10月30日大日乃光第2025号
『結婚式に思う 本人の思いを超えた先祖の意志』
私はここ三ヶ月の間で結婚式に三度出席しました。基本的にはほとんど出席する事はないのですが、親戚の方や宗派内のお方、そして三十年以上の親しい友人のご子息さんということで、例外的に出席しました。式は三組それぞれに、全く異なるものでした。
伝統と格式を、軽々と乗り越える?
私は以前から「仲人のいない結婚式には出ない!」と公言してきました。なぜ、そう思うようになったかと申しますと、十年ほど前の事でした。大変高名なお方の講演会が、熊本市内で開催されました。聴衆も私よりも年配の錚々たる方々ばかりでした。
講演の中で、その女性の講師(御茶ノ水大学の名誉教授)が、「私は主人の看病で、ご案内があっても全ての結婚式に出席出来ませんでした。夫が旅立ってから十数年振りに古い友人のご子息の式に出てみますと、現代の若い人達は古い伝統やしきたりをヒョイヒョイと乗り越えて、友人達と人前結婚式を行なったり、仲人を介さない自己紹介や他己紹介など若い人なりの発想で、それはそれは微笑ましく華やいだ結婚披露宴でした」と話されると、私よりも遥かに年配の聴衆の方々も大きく頷きながら聴いておられました。皆さんは講師のお話をどう思われましたか?
本誌を長年読んでおられる方は「あ、あの事か!」と気付かれたことでしょうが…。伝統の中にある深い智慧を学ぼうともせず、先の世代の慣習を否定する考え方。それが「ヒョイヒョイと乗り越えて…」の中に込められているように感じられたので、私は不愉快でなりませんでした。それを頷いておられる先輩の方々にも失望を感じながら聴いていました。
先人の蓄積の上に、未来が築かれる
二十年近く前の事でした。本院の五重塔の建立前に、建設予定地を発掘調査する事になりました。当時ご存命で矍鑠(かくしゃく)と発掘調査委員長を務めて頂いた、故田邉哲夫先生と、発掘について打ち合わせをしていた時の事でした。
私は軽率にも「過去にあまり拘っていては、未来に向けて歩み出せません。過去は捨てるぐらいの気持ちが必要ではないでしょうか?」などと、大変生意気な言葉を口にした事がありました。
すると田邉先生は間髪を入れず、「今君が喋っている言葉の全てが、過去の歴史や文化の積み重ねの中で、先人達が紡ぎ出して下さった国語だ!国語を離れてどこに未来の発想などあるものか!! 言語というものは民族の魂だ。君は日本人である事を失くし、日本の言葉や文化、伝統を離れては、何事も為し遂げる事など出来はしない!!」と一喝されました。
伝統の意味を学ぶ事もなく、知ろうともしないならば、その人にとって、先人の智慧としての伝統も、単なる古臭い因習にしかならないのです。
正しい歴史に基づいた人前式
八月中旬に出席した結婚式は、人前結婚式でした。しかしその前に、二人にとって縁の深い神社で神前結婚式をすでに正式に済ませておられたのです。
日本人の結婚式は、江戸時代以前は神前・佛前など神佛の前での婚儀ではなく、まさに人前式だったのです。歴史ドラマなどでも、武家の婚儀はほとんどが人前式です。
このお二人は、その事をちゃんと分かった上で、先に神前の儀式を執り行ない、その後、人前結婚式を催されたのです。その披露宴の中で、友人知人全員に仲人の役を果たしてもらいたいとも言っておられました。このような式ならば、私は喜んで出席します。
開山大僧正様の眼鏡に適ったお嫁さん
人の結婚式に出ますと、私達自身が結婚した頃の事が思い出されます。私自身、当時の若い者のご多分に漏れず、結婚を二人の世界だけで考えていました。
そんな私は父(先代貫主)から、「結婚というものは本人だけではなく、互いの両親や親戚、さらには互いのご先祖様からの祝福を受けてするもんだ。自分だけの都合でするもんじゃない!!」と、たしなめられた事を思い出しました。
実を申しますと、私が家内と巡り合ったのは、開山大僧正様(先々代貫主)が、実質的な仲人として陰で動いておられたお陰なのです。
開山大僧正様は最晩年の昭和五十二年五月十三日に、家内に会いたいので蓮華院に連れて来るようにと家内のお父さんに伝えられ、直接本人に会っておられたのです。
その時の事を家内は鮮明に憶えていて、「私の顔をじっくりとご覧になって、ニッコリと素敵な笑顔を見せられました。その後、私の顔をしみじみと見られたので、私も目を逸らさないように見つめ直した事を憶えています」と語っておりました。
開山大僧正様ほどの御霊力であれば、本人が目の前にいなくとも、どんな人間かを見抜くお力があられたはずですが、やはり直接会っておきたいと思われたのでしょう。それが家内にとっては、ただ一度の開山大僧正様への謁見となったのでした。
それから七ヶ月後に開山大僧正様は御入定(高僧が深い冥想に入って亡くなる事)され、その九日後に私は後ろから大きな力で押されるようにして、家内に求婚したのでした。
思い出深い奥之院落慶前の披露宴
開山大僧正様は生前、「英照、信者さんの娘さんに良いお嬢さんが居るから結婚せえ!」
と言われた事がありました。私が、「少なくとも三十歳ぐらいまでは結婚はしません!」と答えると、「それはなぜだ!」と開山大僧正様。「はい! 結婚すれば修行が出来なくなりますから!」すると、「ホォー? 結婚したら出来なくなるような修行は、本物の修行ではない!! そん
なつまらん修行は止めてしまえ!!」と、強く言われました。
その時は意味が分かりませんでしたが、やはり当分は結婚しないつもりでいました。それが何者かに衝き動かされるかのように、今の家内と結婚したのが昭和五十三年三月でした。
まだ奥之院は落慶前で、鐘楼堂と仁王門、それに庫裡と信徒会館が出来たばかりでした。
その時は、先代真如大僧正様を戒師に戴き、本院の本堂で、皇円大菩薩様の御前で結婚式を挙げました。そして仲人は伯父(父方の実兄=当時現職の玉名市長)でしたが、あいにく超多忙でしたので、母方の伯父ご夫妻に務めて頂きました。
披露宴は出来たばかりの信徒会館でした。姉の円海尼が席札を手書きで作ってくれました。一時期流行した〝ジミ婚〟でした。それでも佛前結婚式での戒師の訓戒の内容や、仲人さんや来賓の方々のお話などは、今でもしっかりと憶えています。この様に私達にとってはとても有り難い婚儀だった事を、はっきりと憶えています。
東妙寺開創をめぐる大山家との数奇な縁
中でも忘れられないのは、今は亡き私の親友に、これまた今は亡き家内のお父さ
んが、こんな話をして下さった事です。同窓会の時、その親友が以下のような話を私にしてくれたのでした。
大山家(家内の実家)は源平合戦の「宇治川の先陣争い」で有名な、佐々木高綱を家祖とする家柄で、その家系に佐賀の東妙寺の開山である唯圓上人が居られる事です。
東妙寺は元寇の際に、後宇多天皇の勅願によって開創された真言律宗の寺院です。その当時、鎌倉幕府からも寺社奉行として、佐々木高綱の子孫が東妙寺創建のために派遣されたのです。唯圓上人と高綱の子孫は同じ一族でしたから、皇室のご意志と鎌倉幕府の協力で創建された東妙寺は、実質的には佐々木一門によって建立されたのです。
私が両親と三人の兄弟で、十三年間過ごした、この東妙寺を開創した佐々木一族の七百年後の子孫が何と、私の妻だったのです。その一つの証しとして、東妙寺の寺紋と家内の実家の家紋は同じなのです。
何という不思議な縁(えにし)の巡り合わせでしょうか? 開山大僧正様が、この事を霊感によって知っておられたのか否かは、今となっては分かりません。
全ての巡り合わせに感謝しよう
全ての人々の巡り会いは、この様な目には見えない先祖の方々の様々な思いや情念の中で、出会うべくして出会った、かけがえのない巡り会いではないのかと思うようになりました。まさに「めぐりあいのふしぎに手を合わせよう」(坂村真民)です。
どうか皆さん、親子、夫婦として共に生きている事の不思議と有り難さを、日々の生活の中で少しでも実感する機会を見出していきたいものです。合 掌
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