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大日乃光






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2012年12月21日大日乃光第2029号
「行中雑感 尊敬と真心を込めた言葉を」

輝く御尊像を間近にして八千枚護摩行の前行入り
 
今年も三日から、恒例の八千枚護摩行の前行に入りました。今年で二十一回目ですが、昨年までとの違いは、今年の六月大祭で全国の信者の皆様と共に熱烈な祈りの中で開眼入魂されたばかりの、輝くばかりの新たな御本尊皇円大菩薩様の御尊像の間近での祈りということであります。

新御本尊様の顕現に当たり、私は今村九十九大佛師に、「菩薩と如来の両方の面を持った御本尊様にして下さい」とお伝えしました。優しい包容力と同時に厳しさを伴った、透明感のある佛様にして頂くようにという意味です。

五年半をかけて忿怒の四天王を顕現して頂いた大佛師は、どんなに難しい要望にも充分に応えて頂ける技量を持っておられる事を充分に知っているので、この様な依頼が出来るのです。
 
「業」に善悪なし
 
さて、今回で二十一回目の八千枚護摩行も、真言密教の修行ですから当然の事ですが「三密の行」であります。

まだ本誌を購読して間もない方もおられますのでこの「三密」について少し説明致します。

密教以外では「三密」とは言わずに「三業」と言います。「三業」とは、「身業」「口(語)業」「意(心)業」の三つのことです。サンスクリット語(梵語)の「カルマ」に中国語の漢字で「業」の字を当てて翻訳されました。

「業(ごう)」と申しますと、私達は「業が深い」とか「業欲な人」などと、あまり良い意味では使っていません。しかし「事業家」や「卒業」などと言う時には、その「業」に良い悪いは関係ありません。つまり本来は「業」自体に善悪はないのです。

あえて分かりやすく説明すれば、人が土の上を歩けば「足跡」が残ります。この「足跡」のようなものが「業」であると考えて頂ければ、当たらずとも遠からずと言ってよいでしょう。あるいは私達の深層意識に「記憶」として残るモノと言っても良いでしょう。ですから「業」には本来善悪はないのです。
 
「三業」を「三密」に高める修行
 
「身業」とは、私達の身体で行うすべての動作やパフォーマンスの事です。

次の「口業」とは口で話す、口で唱える、口で叫ぶなど人間の言語そのものの行いの事です。

最後の「意業」とは、心の働きの事です。人間の為す事は、行動や働き・話すこと・心で思う事の三つがすべてなのです。

「身」・「口」・「意」の三つ以外に人間の働きはないのです。この「三業」を完全なものにし、清浄なものにする時、「三業」は「三密」へと転換していくのであります。

そのような考え方の上で、形式にとらわれず「三業」を「三密」に高めていく時、人は日々の生活の中で自身を高める修行の生活となるのです。これを「無相の三密行」と言います。

それに対して日常生活の中で一定期間を決めて、千数百年前から大先達の方々が工夫し、鍛錬し、磨き上げられた修行の形式が数多く残され、師から弟子に伝えられてきたのが密教の修行なのです。具体的には手に印を結び、口で真言や御宝号を唱え、心を佛様に合一させるのです。
 
気になる言葉遣い
 
「三密」の行の一つである護摩行を集中的に実修していきますと、日頃あまり気にならない事が気になってきます。その一つは言葉についての事です。

今は今後の日本の将来にとって大切な、衆議院の総選挙中ですが、政見放送でも立会演説でも、多くの立候補者が「…させて頂きます」「…させて頂こうと思います」という風に、「させて頂く」という言葉を使う方が増えています。

と言うより、私達は日常生活の中でもこの「させて頂く」を多用する社会になっています。
当山で二十四年間続けている「内観」では、ほとんどの方が、この「させて頂く」という気持ちになられます。

しかしこれから国政を担う人が深い思いや謙虚な思い、国家・国民に奉仕するといった思いで、この「…させて頂く」というのであれば結構なことですが、あまりにも「…させて頂く」を多用するのは、リーダーの心構えとしては、果たして良い事なのでしょうか?

国会議員に立候補する方が、このように、ともすれば有権者にへりくだり、丁寧な言葉遣いをしなければならない日本社会は、独裁国家と比べればはるかに良い状態に違いありませんが、国家百年の大計を論じ、そのために必要な政策を立てたなら、実行する時は決然たる態度と言葉で国民をリードするのがリーダーのあるべき姿ではないでしょうか?
 
政治家を軽んじる日本社会
 
一方で、日本社会では政治家を大切にしない、尊敬と言うより政治家を軽視する社会になっているように感じるのは私一人ではないはずです。

選ばれてリーダーになった人を尊敬しないのは、私達の社会全体が自らに与えられた責任や義務を果たさないのと同じではないかと感じます。

小さくは、家庭内でのリーダーである家長が決まっていない家庭が増えています。その結果、互いを尊重し合う事も少なくなり、家族の絆も弱まっています。

学校では、校長先生の言う事を聞かない先生が一部にはおられます。これでは生徒がその先生を尊敬するはずがありませんし、それでは教育の成果も上がりにくいでしょう。

会社でも、社長が社員から尊ばれていない会社は決して良い会社にはならないでしょう。
このように日本の社会全体がリーダーを尊重せず、尊敬しなくなると、もはや国家としての存続も難しくなるのではないでしょうか?
 
住職としての真摯な勤めが自ずと尊厳を生む
 
私が副住職だった頃、先代の真如大僧正様からこんな事を言われた事を思い出します。「どんなに住職(先代のこと)の私がつまらない人間であっても、副住職のお前は私を立てなさい!!」「私を立てないと、お前も人から立てられることはないと知れ!!」

このように言われたご本人は、決して弱音やグチを言うような方ではありませんでした。そして寺の中で、誰よりも早く起床されて、お参り(朝の祈祷)を欠かされる事は決してありませんでした。そして何と申しましても御本尊皇円大菩薩様に、一番真剣に真面目にお仕えしておられたのも先代でした。

こんな方から、「いくら私がつまらない人間でも云々…」と言われた時、尊敬に値する方の下で、その方を支える事の有り難さを実感したのでした。

この、人を尊敬する心の延長線上に信仰があるのですから、リーダーたる者、自分の立場より更に上にある神佛を拝む心と習慣を持つ事の大切さが思われます。リーダーの方々が国を愛し、社会を愛し、この国の先人を尊敬するその姿が、多くの人々からも尊重されるのです。
 
日頃の言葉遣いに魂を込めよう
 
今一つ気になる言葉は、最近では挨拶がわりに使われている「お疲れ」「お疲れ様」の言葉です。

朝の清々しい一時に、この言葉を掛けられると、「まだ全然疲れていないのになー」と思います。少し親しい方には、「私はまだ疲れてはいませんよ。元気ですよ」と言う事もあります。

寺内の職員や弟子の人達は私の考え方を知っているので、誰もこの「お疲れ様」を私に対して言う人はいません。こんな習慣化された言葉を聞いたら、「日本人はそんなにいつも疲れているのか?」と、外国で長年生活していた人は思う事でしょう。

「…させて頂く」は、単に習慣的に言っている人がほとんどでしょう。本当に心からへり下り、我が身を内省しての「させて頂く」にしたいものです。

そして「お疲れ様」は、本当に人様や国家社会の為にご苦労されている人に心を込めて、尊敬の思いを込めて言ってあげたいものです。

私は自分を奮い立たせるために「よし!!やるぞ!!」と自分に言い聞かせます。また大きな決断をした時、「出来る者が、出来る時に、出来るだけの事をしよう」とも言います。

その他にも人を元気にする言葉、相手のためになる言葉を互いに掛け合いたいものです。
合 掌



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