2013年03月21日大日乃光2038号
『父母祖先の恩に報いる事が人生の意義を生み出す』
人生の節目に記念植樹を楽しむ
私は三十数年前から、「十年の計は木を植うるにあり」を三人の娘達のために実行して参りました。
寺に住むことの有り難さの一つは、このように記念に樹を植えられる事です。三人それぞれの誕生の記念や小学校への入学記念、義務教育が終わる中学校の卒業記念など、三人娘のそれぞれの人生の節目に、ビワ・イチジク・サクランボ・栗・ザクロなどの実のなる木を植えてきました。
今(三月八日)はサクランボの花が五分咲きになっています。四季折々に、それらの果実を寺内の皆で食べるのが、私達の楽しみの一つです。
これは今は亡き父(先代真如大僧正様)が、私の中学卒業を記念して、佐賀県の東妙寺で栗の木を植えて頂いたのが一つのきっかけでした。
さらには二十三年前から、「子供の詩コンクール」の一環として、毎年三つの優秀作品の詩碑を奥之院の一角に建て続けています。その詩碑も、昨年十一月でちょうど七十基になりました。
詩碑建立の最初の時、先代は「百年考」として、
一日の計は朝にあり
一年の計は元旦にあり
十年の計は木を植うるにあり
百年の計は子を教うるにあり
と大書した石碑を建立しておられます。この碑文を若い時から見て来た事も、私が子供達のために記念植樹をするようになった遠因かもしれません。
青少年教育に情熱を注がれた真如大僧正様
今回は「百年の計は子を教うるにあり」について少し考えてみましょう。
「国家百年の計は教育にあり」とも言われてきました。しかし、この〝国家〟という言葉そのものを嫌う人びとが多かった時代には、この言葉も死語のようになっていました。
先代は青少年教育には大変関心が深く、自らもPTAの役員を長年務めておられましたし、子供会活動にも熱心でした。また、佐賀の時代には「少年研修館」をお寺の中に設置して、様々な活動もしておられました。
蓮華院の貫主になられてからも「一休さん修行会」と自ら名付けられた修行会を、毎年春と夏に開催しておられました。
更には「親を大切にする子供を育てる会」を創設されて、熊本県内の小中学生から「おとうさん・おかあさん」のテーマで詩を募集して来られ、毎年五千篇もの子供の詩が寄せられています。これら全てが先代真如大僧正様のご意志と並々ならぬ思い入れによって始まり、現在でも継続しているのです。
その真如大僧正様の教育についての考え方の一端を振り返ってみたいと思います。
教育の「教」とは
まず教育の「教」という文字の本来の意味をこの様に解説しておられました。
まず、「教」の字は旧字(正字)では「敎」と書き表します。次に「敎」を「 」(メ・ナ・子)と「攵」(=「攴」ト・又)に分けます。
「 」は甲骨文に記された「學」(学)の最古の字形で、下の者が上の者に学ぶ
場所(学校)を表します。「 」をさらに分解すると「爻」(コウ)と「子」に分けられます。『易』では「爻」は陰陽を表す卦を指し、転じて男女や夫婦を表します。その下に「子」が入る事で「爻」には両親、祖父母などの意味が生じます。
先祖からの命の繋がりや伝統を、その下の「子」がしっかりと受け止め、今の命の意味を実感することが「孝」に繋がると話しておられました。
一方「攵」(「攴」)を分解すると「ト」と「又」に分けられます。この「ト」は枝分かれした小枝で、「又」が手を表しますから、「攵」は「小枝を持った手」が原形で、手で小枝をふるって軽く叩く意味を表します。つまり「 」とは逆に、「攵」(攴)には上の者が下の者を躾ける意味があるのです。
つまり、「敎」(教)とは先祖から現在の子孫への命の繋がりを実感し、子や孫が祖先に学ぶ事と、子に躾けるという、智慧や魂の双方向的な継承を表わすと解説されました。
「育」の意味
それでは教育の「育」はどうでしょう。
「育」という字は「子を逆さにして月に付くるなり」とあります。「 」はまさに「子」を逆さにした形です。「月」は本来は「ニクヅキ」(肉)ですが、真如大僧正様は敢えて「日月星辰」の「月」に見立てられ、「日は天子なり」とある事から、「月は大衆なり」と解釈されました。
つまり多くの地域の人びとの中に親しく交われるように子を誘導する事、これが「育」の一つの意味であると解説しておられました。これは「教育」に対する一つの考え方であり、真如大僧正様はこの考え方に立って青少年育成に励んで来られたのでした。
人は何の為に生きる?
そんな青少年育成の機会の一つ、「一休さん修行会」の開講式や講話の中で、真如大僧正様は必ずこんな話をしておられました。
それはご自身が子供の頃から悩み考えて来られた「人は何の為に生きるのか?」という大きなテーマについての話でした。
現在の私自身も含めた多くの大人達も、この「人は何の為に生きるのか?」という問いに自信を以て答えられる人は意外と少ないのではないでしょうか。
私自身も高校時代、担任の先生に真正面からこの問題を伺った事がありました。しかし、その当時三十代だった先生も困った顔をされて、はっきりした答えはついに返って来ませんでした。
最近、若い人達が「自分探し」として世界中で放浪の旅をしたり、様々な仕事を転々としている内の幾許かは、この「人は何の為に生きるのか?」の問いを求めてのことなのかもしれません。
弘法大師の聖句
先代にとって、その大きな問いへの答えは、高野山大学に学ばれる中で弘法大師のご著書に接した時に巡り遇われました。
その時目からウロコが落ちるような思いで噛み締められたのが、「人は四恩の救済のために生きるなり」の聖句でありました。
「四恩」とは、下記の四つの恩の事です。
「父母祖先の恩」
「国土・国王の恩」
「一切衆生(生きとし生けるもの)の恩」
「三宝(佛・法・僧)の恩」
この四つの恩に報いるために生きるのだ!!という弘法大師のお考えなのです。先代はこの聖句に飛び上がらんばかりに喜ばれ、長年求め続けてきた人生の目的が定まったと確信されたのでした。
これを読んでおられる皆さんの中で、何パーセントの人が「そうだったのか!!」「これで人生の目標、生きる意味が定まった!!」と思われたでしょうか?
中には何となく「そんなものかなー」「自分にはわからないなー?」と感じられた方もおられることでしょう。私も三十年程前に、先代からこの話を聞いた時は、それほどズシンと心の底に響いた訳ではありませんでした。
ふるさとや肉親の恩に報いる
特に「国土・国王の恩に報いる」という部分には、何か国家主義的なものを感じて違和感を覚えました。「教育は国家百年の大計」と聞かされて、違和感を感じるのと同じような理由かもしれません。
そんな方々は「国家」、「国王」の代わりに「ふるさと」と置き換えて考えてみられてはいかがでしょう。さらには「家族」「親戚」などに置き換えてみてはいかがでしょう。
千二百年も昔の弘法大師にとって「国王」とは日本民族そのものであり、国を一つの家族と見立てた上で、その集合体の意味に受け取っておられたのではないかと思います。そして「国王」の前に「国土」としておられるのは、まさに私達のふるさとの総体としての国土という風に考え直してみれば、随分違和感がなくなるでしょう。
先代は自らも学徒出陣として海軍予備学生の第十五期生として、特攻飛行士としての猛訓練を経験しておられます。現代も国難の時代と言われてますが、今とは比較にならないほど過酷な戦争のさ中で青春時代を送っておられるのです。
ですから、戦後生まれの私達の世代とは、受けた教育内容も違いますし、生きることの重みも格段に違ったものがあったはずです。
夫婦円満に勝る情操教育無し
「四恩」の中で最も身近な項目は「父母祖先の恩に報いる」ことです。これこそ日本人が古来持ち続けてきた生きる意味の根幹です。子供を育てる中でも、自分自身が親を大切にしている姿を子供と共に共有して行く中に、「百年の計」が定まるのです。
いま一つ、二十年以上の子育ての中で実感している事は、夫婦が仲良くすること、これに勝る情操教育は無いと確信しています。
私自身、子育てに関しては、現代の「育メン」と呼ばれるほどの育児に協力する夫ではありませんでした。しかし妻に対しては常に丁寧に接していましたし、夫婦喧嘩を決して子供達に見せないようにしていました。
今は三人とも嫁いでいますが、未だに身障者の妻と家事の不得手な私のために度々訪ねて来てくれます。これも妻が私を常に立ててくれて、互いに仲良く過ごしてきたお陰と、有り難く思っております。合掌
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