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2013年07月11日大日乃光第2048号
「”三輪清浄”のお盆供養をより良き人生への第一歩に」

”三輪清浄”のお盆供養を、より良き人生への第一歩に

ようやく梅雨らしい気候になりました。四季折々の変化が通常通りに繰り返される事が、いかに尊く有り難い事かを実感致します。

前号の本誌でお伝えしましたように、本年一年はミャンマーのご遺骨の帰国に向けて、信者の皆さん方にもご協力頂きたいと思います。

「五智如来」の佛像顕現や、その佛様をお祀りする「多宝塔」の建立につきましては、五年後を一応の目処に、着々と進捗させて参ります。

アルティック・ヤンゴン支部を新設

ミャンマーには、れんげ国際ボランティア会(アルティック=ARTIC)も深い関わりを持つようになりました。

十二年前、ミャンマーの少数民族であるカレン族の難民を、タイ領内に設けられた難民キャンプで支援しているご縁から始まりました。今年五月にはアルティックのスタッフであり、れんげ農苑長でもあった平野喜幸君が、ミャンマーのヤンゴンにアルティック支部事務所を開設するに至りました。

こんな関係から、六月大祭後のホッと一息ついたある日、映画の『ビルマの竪琴』をDVDで、家内と一緒に観ました。青年時代に小説で読み、映画館でも観ていましたが、何十年振りに再び観てみると、さらに深い感動を覚えました。

夫婦で共に観て一緒に泣いた、戦争で運命を変えられた人々の映画

ビルマの山野に遺棄された夥しい兵士の亡骸を必死で埋葬する水島上等兵…。そしてついに、彼はこれらの同胞をそのままにして日本に帰る事を断念し、正式なビルマの僧として生きる事を決意します。妻と二人で何度も何度も涙を流しながら観ました。

それから数日後、今度は衛星放送で『二十四の瞳』を二人で観ました。瀬戸内に浮かぶ小豆島を舞台に、大石先生と十二人の教え子達の昭和三年から二十一年に至る激動の人生の物語でした。

劇中、度々懐かしい童謡唱歌が歌われました。不思議な事に、三年半前に脳出血で言葉を失った妻も童謡は歌えるのです。二人で一緒に何度も童謡を歌い、共に涙を流しながら観ました。

最後に昭和二十一年、二十代後半ぐらいになったかつての教え子達が、大石先生のために謝恩会を催します。六人いた女子の教え子は五人が集い、六人いた男子の教え子は、たった二人しか参加できませんでした。男子の欠席した四人は、全員戦死していたのです。しかも参加した二人の内の一人は失明していました。彼らがいかに苦難の青春時代を送った世代であったか、偲ばれます。

すぐ身近だった帰らざる真実

『ビルマの竪琴』で水島上等兵をビルマの地に留めさせた莫大な戦死者や、『二十四の瞳』の四人の戦死者の中にも、骨となっても未だに祖国に、ふるさとに帰っていない人がいるかもしれません。二つの映画はどちらもフィクションですが、恐らくは当時、似たような実話が数多く存在したに違いありません。

全国の信者の皆さんの中にも、ご本人や父母、或いは祖父母の世代で同じような体験をされた方は多いと思います。現在でも時々、六十数年前に戦病死された方の成佛供養をお願いされる事があります。そこでこの「供養」という事を、改めて考えてみたいと思います。

心に響く、修行者相手の「大衆供養」

「供養」という時、この「供」とは何を「供える」のでしょうか?そして「養」とは一体何を「養う」のでしょうか?この「供養」は、必ずしもお亡くなりになった方だけへの行為ではないという事
を、まず最初に申し上げたいと思います。

かつて高野山専修学院という修行道場で修行していた頃、「今日は〝大衆供養〟として皆さんに一つずつ、胡麻豆腐の〝お接待〟があります」と、昼食の時に指導者の方から言われる事が時たまあります。すると、約七十名の同行の仲間の顔には一様に、笑みがこぼれました。

どういう事かと言いますと、修行仲間のどなたかのご家族や縁者の方が道場を訪ねられて、胡麻豆腐を一個ずつ全員に「お供え」されたのです。道場の食事は極めて質素でしたから、胡麻豆腐を貴重なものとして、皆が喜んだのです。このような事も「供養」の一つです。
供える相手は七十名の修行者で、養った物は、七十名の修行に、より励みになるような栄養でした。

つまり「供養」とは、相手の心に届くものであり、相手も喜び、供えた本人、つまり「施主」の心にも満足感の余韻が残る爽やかなものです。この大衆供養を「お接待」とも言います。

供養・接待・布施に大切な、三つの条件

四国八十八ヶ所などの霊場巡拝などの時に、よくこの「接待」「お接待」という言葉に出会います。巡礼しているお遍路さんに、一夜の宿や食事を提供する事を「お接待」と言います。

しかし相手がそれを迷惑に感じたり、困ったりするようなお接待は「おせっかい」にしかなりません。つまり供養や接待は、その供養を受ける側も、供養する側も、共に相手に対する
感謝の思いが出て来なければ、良い供養とは言えません。

また、先の胡麻豆腐がもし腐っていたとしたらどうでしょう? それに気付かずに食べて、体調を崩してしまえば修行どころではありません。つまり供養されるそのものも真っ当な物、良い物でなければいけません。

供養も接待も、供養をする人と供養を受ける人が良き思いやこだわりのない心の状態であり、供養されるそのものも良き物でなければならないという三つの条件が必要なのです。
この事を佛敎では供養や布施の三条件として、「三輪清浄」と言います。

ここで初めて「布施」という言葉が出ましたが、布施も供養の一種と考えて良いでしょう。
何かを人にしてあげたり、何かの物を人に差し上げる時、その人の心に「惜しみの心」や「恩を着せる思い」があってはなりませんし、また相手が「負担に感じ」ても、「いやな思い」をしても、それは完全な布施ではないのです。そして布施されるそのものが互いにとって「良きもの」でなくてはならないのです。

お盆供養を良き生活へのきっかけに

お盆が近づいて参りました。東日本では七月から、西日本では八月が中心になります。このお盆供養もご先祖様や亡き父母、祖父母、或いは恩人や忘れ難き人々へ真心を供え、自分自身の布施の心を養う大切な国民的な行事です。

ここでお盆供養や月極めの先祖追善護摩供養を続けておられる方にお伝え致します。これらの供養や様々な祈願をされる時、心のどこかに「惜しみ」の気持ちがあったのでは充分な供養にはなりません。しかしこの「惜しみ」の心を保ちながらでも続けて行く事によって、供養する方ご自身の心に更に強い信念が養われて行くものなのであります。

一方、これまでお盆供養などの当山の「四度供養」を申し込まれた事のない方は、是非この機会に年に四度の供養を始めてみて下さい。必ずや心の中に良き変化が表れ、生活の質が変わってくるものと確信致します。

お盆を迎えるこの時期に、生きている人への接待と同じように、今は亡き方々のご恩に思いを致し、その方の人生の良き思い出に接しながら、自分自身のより良き生き方への決意をする機会としたいものです。合掌



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