2013年10月23日大日乃光第2058号
同心同行が集う奥之院開創35周年大祭
運命を変えた四年前の十月十二日
昨日で、私の人生を大きく変えた日から、ちょうど四年が過ぎました。それは平成二十一年十月十二日のことでした。
その一年前から妻の久美子はC型肝炎の治療のため、インターフェロンによる治療を続けていました。その副作用として、「極くまれに、脳出血を発症する事あり」と書かれていました。この治療は抗癌剤による治療のように、とても体がだるくなり、疲労感を伴うものでした。
その日も疲れていたのか、妻は朝食にも起きて来ませんでした。八時になってもまだ寝ています。私は貫主堂で執務をしていましたが胸騒ぎがして十時頃に寝室をのぞくと、珍しくイビキをかいて熟睡しているようにも見えました。
私はハッと気付いて揺り起こそうとしましたが、一切反応がありません。すぐに救急車を呼び、私も同乗しました。向かった先は隣り街の公立病院でした。妻は頭痛があまりにも激しくて、つい前日にも診察を受けた病院でした。
左脳に写し出された脳内出血の痕跡
早速CTで脳を検査したところ、前日とは打って変わって左側の脳に大きく出血した跡が写っていました。同じ病院の同じ医師が同じ機械で調べたというのに何という違いでしょう!彼女は病気から逃れられない運命だったと、後で思いました。
「今夜が峠です!!」と、医師から非情な宣告を受けました。私は徹夜で付き添い、必死に祈りました。
その間医師から、もし命を取り止めても様々な障害が残るとか、意識が戻っても嚥下障害(えんげしょうがい=飲み込めない障害)が残る可能性が非常に高いなどなど、不安になるような予告を次々に言われました。
生死の境の妻を残して、必死で祈った添え護摩祈祷
その翌日は今日と同じく御縁日法要でしたので、妻を娘達に託し、先程のように護摩を焚きながら、妻の延命も併せて必死で祈りました。
信者の皆さま方には誠に誠に申し訳ない事でありますが、その時の私は添え護摩木に書かれた様々な願い事や願主のお名前を目にしながらも、どうしても妻のことが頭をよぎったのを覚えています。
お参りが終わり、法話を終え、お斎もそこそこに病院へ向かうと、妻の意識が戻り、私の顔を見て左手をかすかに振ってくれました。最大の危機を脱したのです。
食べ物を飲み込めないだろうと言われていたのも、その二日後にはお粥をすすっていました。また一つ障害を乗り越えてくれました。
約一ヶ月後、その病院からリハビリ病院へと転院しました。それまでは車で十五分の病院でしたが、それからは四十五分くらいかかります。その車の中で一人になった時、何度涙を流したか知れません。
笑顔を教えて頂いた藤本猛夫さんの言葉
ある日、ふと三十年近く車イス生活を送っておられる藤本猛夫さん(二十三年前の子供の詩コンクール最優秀賞の受賞者で、筋ジストロフィーを患っておられます)の事を思い出しました。
彼は妻の病院から十五分程の病院で生活して居られますので、事前に連絡して妻と共に訪問しました。この事は一度、本誌(平成二十二年三月一日、一九三六号)に書きました。
そこでの彼の言葉は、「人は笑うために生きている」でした。その言葉を聞いた時、そう言えば最近の私は笑っていないという事に気が付き、妻に対しても努めて笑顔で接するよう心掛けなければと思いました。
笑顔を欠かさないために、リハビリ病院への往復では桂七福さんの落語のCDと、彼の新作落語「チョビット・チベット」を何度も何度も繰り返し、車の中で聴きました。
祈祷師として後ろめたさを感じた日々
そうこうする内に、平成二十三年の南大門の落慶法要が迫って参りました。
その頃までの私は、全国の信者さんの願いを皇円大菩薩様に届け、叶えて頂くために日々祈祷をしているにも関わらず、自分の妻が脳出血で倒れるとは何と恥ずかしい事か!と思っておりました。自分の妻さえも護ってやれなくて、何と情けないと感じていたのです。
しかし最近では妻の病気のお陰で多くの事を学び、それまで見えなかったものが見え、これまで感じられなかった事を感じられるようになりましたので、もはや恥ずかしい事とは少しも思っておりません。
また妻の事を恥ずかしく感じていたのは、障害者になった妻を、私自身が心のどこかで否定したかったからなのかもしれません。ここ一年程の彼女は底抜けに明るい笑顔と笑い声で、このことを私に気付かせてくれたのです。
笑顔の妻と新幹線で旅行
先月、初めて二人で新幹線に乗って、岡山までの一泊旅行をしました。新玉名駅で二人分の切符を駅員さんに見せると、車イスの妻を見るなり「博多駅での乗り換えの時間が五分しかありませんね」と言って、どこかに電話をされました。
その後、私達が駅のホームに上がって列車を待っていたら、先程の駅員さんが大きなボード(板)を持って上がって来られました。そして列車が着くなり、そのボードをホームと列車の間に渡して下さいました。
その後、何と博多駅でも駅員さんが私達の車両の停まる所で待っておられて、同じように板を渡して下さいました。そして別の方が妻の車イスを押してエレベーターに連れて行って下さって、別のホームの次の列車まで案内して下さいました。
するとまた別の方が、私達の乗る車両に板を持って待っていて下さるではありませんか。何という連携プレー!何という心配りでしょう。
行く先々で気遣いの連携プレー?
新幹線の車両の中でも、二人分の荷物を入れたトランクを引っ張りながら車椅子を押す私の姿を見兼ねてか、幾人もの方が「お手伝いしましょうか?」「荷物を持ってあげましょうか?」などと、自ら申し出て下さって、助けて頂きました。
岡山駅に着くと、今度はJR西日本の駅員さんが同じようにボードを渡して下さって、また別の方が泊まりのホテルまで連れて行って下さいました。
ホテルには身障者の妻のことを伝えていなかったので、私達を一目見るなり改めて、身障者用の部屋をとって頂きました。
チェックインしてから少し休み、タクシーに乗ろうとホテルの玄関に向かうと、ホテルのスタッフが「お手伝いしましょうか?」と声を掛けて下さいました。タクシーに乗り込む時も、運転手さんが車のトランクを開けて、素早く車イスを積み込んで下さいました。
JR九州、JR西日本、JRの提携ホテル、それまでに隣り合わせた方々、タクシー運転手の皆さんと、それぞれに素晴らしい連携と援助で、車椅子の妻と私のバックアップをして下さいました。
妻の介護者になって初めて経験した新幹線での旅は、驚きと感動の連続でした。日本社会がいかに障害者に優しいか!その気配りが素晴らしいことか!感謝と感動の連続の旅でした。
妻のお蔭で実感出来たバリアフリーの有り難さ
私が若い時、奥之院で院代を務めていた頃、車椅子でお参りされる方に何度か接しました。
その度ごとに「大変だなー」「よくぞあの身体でお参りされたなー」と感心していましたが、いざ自分の妻が車椅子生活になってみて初めて気付いた事は、神社佛閣には階段が多く、なかなか本殿や本堂まではお参り出来ない所が多いという事でした。
それまでは知識としてはバリアフリーの事を知っていましたが、介護者の身で体験して初めて分かった事もたくさんありました。
その体験をふまえて当山の本院や奥之院を見直してみると、まだまだ改修すべき所がある事に気付かされました。奥之院は本堂(五重御堂)までは完全なバリアフリーになっています。
随分以前から、正面奥の大佛様の所へは、車椅子では遠回りしなければ行けない場所である事が分かっていましたが、妻と奥之院にお参りする時は柴燈護摩道場の直前までは楽に行けますので、妻はそこから上を向いて皇円大菩薩様の大佛様にしっかりとお参りする事が出来ます。
奥之院の大佛様の階段、女坂(三十二段)と男坂(六十段)
いつの日か、三人の娘とその婿さん達が揃ってお参りした時に、三人の婿さんと私の四人で妻の車椅子を抱えて、あの九十三段の石段を登って連れて行きたいと思っています。
この石段は柴燈大護摩道場の脇から左右に分かれてなだらかに登る三十二段と、一本に合流して正面を登る六十段から成っています。左右の三十二段を女坂、正面を男坂と名付けました。
来たる十一月三日の大祭では、一人でも多くの信者の皆さんに、この石段を登って頂きたいものです。もし車椅子でお参りされる方を見かけたら、ぜひ周りの人々で助けてあげて下さい。
大佛様のすぐそばまで連れて行って下さったら、その方はどんなにか喜ばれる事でしょう。助ける人も助けられる人も、同じく皇円大菩薩様を信仰する同心同行の仲間です。遠慮することなく、その援助に身を委ねて下さい。
この様な助け合いの輪が広く世間に拡がる事を、み佛様はどんなにか喜ばれる事でしょう。皆さん、親元に里帰りするような気持ちで大祭にお参り下さい。心からお待ち致しております。合掌
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