2014年04月05日大日乃光第2072号
知らない事には何も出来ない。しかし知っても行動しなければ--
五重塔建立から始まったダライ・ラマ法王とのご縁
いよいよ四月となり、早いところは桜が咲いている頃でしょう。
思い起こせば九年前の平成十七年四月十日、三泊四日の日程でダライ・ラマ十四世法王猊下が玉名に来られました。この事は私の人生にとって、また当山にとっても大きな転換点と言うべき出来事になりました。
そもそもこの得難いご縁の始まりは、平成九年に落慶した本院の五重塔建立に遡ります。
五重塔一層内部の空間をチベット曼荼羅五幅、四天柱の四菩薩、八枚の扉の八天に加え、全ての内装をチベットから亡命した佛画僧の皆さんに描いてもらった事が、その後のチベット難民支援へと繋がりました
翌年に「れんげ国際ボランティア会」(略称ARTIC=アルティック)設立二十五周年を迎えるという平成十六年、インドのデカン高原のほぼ中央に位置するナブプールという都市の近くにあるノルゲリン・チベット難民居留区の百八十七棟の家屋改修を三年がかりで実施しました。この事が後に、ダライ・ラマ法王のご来訪に繋がったのでした。
ノルゲリン居留区での改修事業が全て終わり、落成式を開催するに当たって、ノルゲリンの村長さんからアルティク宛に招待状が届きました。その中には「ダライ・ラマ法王猊下もご来訪されるので、是非ともお越しください」といったことが書かれていました。
法王猊下に宛てた二通の親書
それ以前に、私は京都で一度だけ、法王猊下の隣に座って間近にお話ししたことがありました。
その時の猊下の声はとても素晴らしく、大地の響きのような力強いバリトンの声に、心を奪われるような一時を過ごしました。
その時、ノルゲリン居留区の村長さんが短期間で次々と代わっていましたので、家屋改修事業は順調に進めにくい状態でした。
そこで全ての改修が終わるまで村長を代えないようにお願いする手紙を法王猊下に手渡しました。
するとそれ以降、落成式まではゴンポさんがしっかりと村長を務めて頂きました。しかし様々な事情でノルゲリンに行けなくなり、私の名代に宗務長の光祐を任じ、併せて三人をインドに派遣しました。
そしてその時、私から法王猊下への二度目の親書を手渡してもらいました。その親書には、来年がアルティックの創立二十五周年に当たり、記念行事を催しますので、その特別ゲストとしてご来訪頂きたい旨を書いていました。
その親書に目を通された法王猊下は秘書の方と一言二言、言葉を交された後、「See You again.Next year!!」(来年再びお会いしましょう)と明快に、断定するようにおっしゃって、当山へのご来訪を快諾頂いたのでした。一行の三人は目をパチクリさせながら、「本当に世界のVIPのダライ・ラマ法王が蓮華院に来る!?」と思ったそうです。
地域の叡智を総動員、総結集しての「おもてなし」
それからが大変!「ダライ・ラマ法王来熊歓迎委員会」を設立し、熊本県を中心として九州各界のリーダーの方々にご就任頂きました。そして長年地域づくりを行なってきた仲間の人達と実行委員会を立ち上げ、度重なる打ち合わせを行いました。
同時に東京都内にある「ダライ・ラマ法王日本代表部事務所」との打ち合わせや、会場(熊本県立劇場)の予約から、熊本県警、玉名警察署、警備会社との打ち合わせ、九州看護福祉大学との打ち合わせ、ボランティアの確保、宿泊ホテルとの打ち合わせなどなど。
平成十七年四月十日、県立劇場での「国際協力シンポジウム」には千八百名、十二日の九州看護福祉大学での講演には千七百名、奥之院での法話会には四千八百名、地元ホテルでのアルティック二十五周年祝賀会には千二百名、十三日の本院五重塔前での「世界平和法要」には千五百名と、延べ一万人を超える人々にご参加頂きました。その参加された全ての方々へのボディーチェックも欠かせませんでした。
寺内の職員の中には、かなりのオーバーワークで目を真っ赤にしている人や、ついパニックを起こしそうな人などが現れ、大きな負担をかけてしまいました。しかし、これ程の大きな催しを実施した事は全ての職員にとっての自信にもなり、互いに協力し合う態勢も更に充実しました。
内外に及ぼした大きな反響
その意味では、寺内的には大きな意味があったのですが、この催しを通じてアルティックの会員が増えたかといえば、思った程の成果は上がりませんでした。ともすると一過性のイベントに終わったように感じましたが、それは一面的な感じ方でした。
大きな変化として、この年以来、ダライ・ラマ法王は毎年来日されるようになりました。時には年に二回、来日された年も何度かありました。考えてみれば、アジアの国々でダライ・ラマ法王が訪問されるのは、残念ながら日本だけなのです。
先月、ダライ・ラマ法王はアメリカのオバマ大統領にも直接会っておられますし、ヨーロッパの国々の大統領や首相にも公式に何度も会っておられるのです。しかし残念ながら、日本の総理大臣でダライ・ラマ法王に公式に会見した総理大臣は一人もおられません。
日本は中国に対していわれのない配慮をしているとしか言えません。逆に中国の主席が日本にとって都合の悪い第三国の要人と会ったからといって、日本の外務省が「遺憾の意」を表明する事は無いと思います。
世界の常識に反する内政干渉
思い起こせば九年前のその時、ダライ・ラマ法王猊下の基調講演を始めとする熊本県立劇場での「国際協力シンポジウム」に、熊本県の国際課と玉名国際交流協会に後援をして頂きました。
すると、このシンポジウムの前に中国領事館から県知事と玉名市長に「遺憾の意」を表明に来たそうです。当時の潮谷義子知事は「お申し出の件、確かに承りました」と一言返事をされただけだそうです。
私は後援して頂いた県や市に中国政府の在外公館がそのような行動を取ったのであれば、主催であるアルティックや蓮華院にはどんな言葉で批判して来るかと楽しみに待っていましたが、ついにそんな日は来ませんでした。
共産党独裁国家の中国も、さすがに一宗教法人にそこまでしても意味がない事と考えたのでしょう。政府と民間では立場が違うというのは世界の常識ですから、逆に言えばよほどの事がない限り、政府が民間の行動について口を挟む事はないのが世界の常識です。
その意味では、まさに宗教的な活動や民間の国際協力活動(NGOやNPOの活動)は、政治的な制限は受けないのが普通の民主主義国家の常識のはずです。
国による宗教の支配とは?
それに対して一部の全体主義的独裁国家は、宗教的な活動や民間での国際交流、国際協力に対しても、国家の支配を及ぼしているのです。
その一つの現れがダライ・ラマ法王猊下に次ぐ宗教的な権威を持つと言われている、パンチェン・ラマ十一世の件です。
ダライ・ラマ十四世法王が十数年前に指名したパンチェン・ラマ少年(もし生きていればこの四月二十五日で二十五歳)は、その生死さえも未だに分からないのです。これは中国当局が、その少年と家族を極秘に拉致したからです。
そしてその少年の代わりに中国政府が勝手に認定したパンチェン・ラマ十一世がチベット自治区の副主席に就任し、中国が作った国際的な佛教会に数年前、デビューしています。これこそ国が宗教を管理し、支配している一つの象徴的な事例と言えるでしょう。
国民の盾となって殉じたパンチェン・ラマ十世
一九五九年、ダライ・ラマ十四世法王は人民解放軍との衝突の中で多くの同胞が生命を落とし続ける情況の中、自分がこのままチベット国内に留まり続ければ、さらに多くの国民が命を懸けて中国当局への抵抗を続けてしまうので、已むなくインドへと亡命されました。
このダライ・ラマ法王亡命の後を受けて、先代のパンチェン・ラマ十世は、自分までもが国外に亡命すれば人々の心は安定しないと思われて、已むなく中国当局の指示に従っておられました。しかし遂に意を決して本心を表明されると、その直後に謎の死を遂げられました。一説では当局から毒殺されたのではないかとも言われています。
中国という国はこれまでの歴史の中で、佛教を弾圧した王朝がいくつかありましたが、現在ほど完全に、佛教を支配下に置こうとしている時代はないのかもしれません。
近代国家の条件の一つに、宗教に対して政治が直接影響を及ぼさない「政教分離」の体制が挙げられますが、中国は宗教を政治の支配下に置いて、それをチベット統治の道具にしています。しかし、そのやり方が決して成功しているとは思えません。
それは、ここ数年益々監視と弾圧が強まる中で、已むに已まれぬ抵抗として、これまでに百三十二人もの人々が、自ら身体に油をかぶり、火をつけて「チベットに自由を!」「ダライ・ラマ法王のご帰還を!!」と訴えながら亡くなっている事からも、容易に想像できます。
知った上で為すべきこと
共産党政府がパンチェン・ラマ十一世を勝手に認定し、本物のパンチェン・ラマとその家族の行方も、生死さえもわからないこの現実を、私達日本人はほとんど知りません。
現代のこの地球上に、このような理不尽な事がまかり通っていることを、ぜひ皆さんにも知って頂きたく、敢えて書きました。
知らない事に対しては、人は何も出来ないし、行動しようとも思いませんが、知ってしまった以上、それを見過ごすのは、知らなくて何もしないよりもっと悲しく、もっと情けないことなのではないでしょうか?合掌
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