2015年02月21日大日乃光第2101号
「御宝号の念誦と感謝の心で幸福な人生へと転換しよう」
第十三回玉名盆梅展に見る時代を超えた職人の妙技
まだまだ寒い日々が続きます。それでも今月十二日から始まった、奥之院での「玉名盆梅展」の梅の盆栽は、すでに紅梅白梅が馥郁たる春の香りを漂わせています。
この中には樹齢二百年を超える盆梅もあります。ということは、何代にも亘って世代を超え、時代を超えて形造られてきた盆栽なのです。人の一生よりも長い期間を生きてきたそれらの盆栽には、神々しささえも感じられます。
盆栽と言えば、以前の私は枝を曲げたり伸びる枝を切って、植物を虐めているように感じられて、あまり関心を持てませんでした。しかし、十三年前に奥之院が「玉名盆梅展」の会場になってからというもの、多くの盆栽関係者や技術者に接して、その真摯な人柄や盆栽に取り組む真剣さには、敬意を感じています。
仕事に取り組む姿勢が非凡な作品を生み出す
私は若い頃から様々な職人さんと接してきました。
一番最初は、奥之院の鐘楼堂(大梵鐘を収めるお堂)の瓦葺き工事の職人さんと共に働いた時です。労働大臣賞を受賞しておられたその棟梁は、今にして思えば、現在の私の年代だったことになります。
その棟梁のお弟子さんが三人から四人。その職人さん達の仕事が滞らないように、私ともう一人で、漆喰や瓦を職人さん達の手元まで運ぶ仕事をしていました。
そんな中で気づいた点ですが、腕のいい職人さんは、殆ど無駄口を叩きません。合図と目配せだけで、テキパキと作業が進んでいくのです。本院の五重塔や南大門を建立した時の大工さん達も、チームワークと手際の良さが、それはそれは見事でした。
恐らく盆栽を造る人々も、あるレベルを越えると、淡々と無駄な動きもなく仕事が進んでいくのではないかと思います。
盆栽に及ばない私達の寿命
さて、先に、盆栽は木の枝を曲げたり成長を抑える作業をするので余り関心がなかったと言いました。それは、自由奔放にする方が良いことで、規制をかけたり制限を加えるのはよくない、という考え方が若い頃の私の心のどこかにあったからかもしれません。
それに対して年齢を重ねた現在の私は、人には様々な制限が適度に加わる事によって、その人の個性や特性が逞しくなり、本物になると思っています。
例えばホースの水は出口を狭めると勢いを増し、遠くまで飛びます。それと同じように様々な技術や職人芸的な仕事は、ある程度の規制をかけなければ、より強く逞しく、生き生きとしたものにならないと思うのです。大自然の厳しさにも似た様々な圧力を受けた盆栽が、威厳や神々しさを湛えるのも道理かなと思います。
さて、人生は八十年、長く生きても百年、最近の説によれば、人間は本来百二十年は生きられるのだそうです。そうだとしても、悠久の時の流れからすると、長いようで短いのです。数百年以上生き続ける盆栽にさえも及びません。だからこそ、人として、その日その日を精一杯存分に生きたいものです。
この生きるという中で、私達は何かを犠牲にして生きて行かざるを得ないことに気づきます。ですから規制という言い方はふさわしくないかもしれません。
盆栽を生み出した日本人のエコな生き方
私達の生きる上での基本は衣・食・住です。
その全てにおいて、この地球環境に負荷をかけながら生きています。例えば冬の暖房、夜の照明、これらは全て石油などの化石燃料を消費しての生活です。
「私は太陽光発電だから違います」と言う方もおられるでしょうが、ではその発電パネルを作るのに、一体どれぐらいのエネルギーや素材を消費したでしょうか? パネルの寿命と効率を計算して、果たしてどうなるのかは、頓には私には分かりません。しかしこれとても、完全なエコとは言えなくなるでしょう。
こんなことを言い出すときりがないほど、私達の生活は生きているだけで、環境に負担をかけているのは事実です。
そんな中で、私達は「無駄な何かを止める」「勿体ないと思える事を減らす」ことを一つずつでも実行していく事が大切なのではないかと思います。
盆栽は、平安時代に中国から原型が伝わりました。やがて江戸時代になると、当時世界最大の都市だった江戸の町で大名から庶民の間へと広まり、世界有数のエコな生き方をしていた日本人の手によって、今日、欧米でも〝BONSAI〟として親しまれている日本独特の文化として発展しました。
少ない空間をよりよく活かす日本の知恵が、盆栽を更に発展させ、身近なものにしたのではないかと思われます。
感謝の心が導く、充足への自覚
現代は「足るを知る」生き方が大きく見直されています。欲望には限りがありません。その欲望とどう付き合うかを生活の中で実感して行かなければ、これからの地球社会は行き詰まってしまうでしょう。
その様な時代にあって、「感謝の心を育てる事」が大きな希望と先行きへの光明になるように感じています。
単に、現状を否定的に「足りていることを知りなさいよ!」と頭ごなしに言われるよりも、私達は一人一人が自分の実感として「有り難いなー」「嬉しいなー」と感じられるならば、それこそが真に「足るを知る」生き方になっているはずです。
その意味では有り難い、嬉しい事を実感しながら生きる事は、不平不満を言わずに、今ある事、今恵まれている事に気付き、さらには今の幸福を見付け出して行く生き方が、深い意味での足るを知る事に繋がるに違いありません。
反省に始まる利他行の実践
そして、いまひとつ「足るを知る」の反対に「足らざるを嘆く」事を、あえて申し上げたいと思います。
これは「もっとお金や物が欲しい」「もっと愛してほしい!」「もっと私を認めてよー!」と言うように、他の人や社会に何かを求める生き方ではありません。
それとは逆に、自分の方から周りの人々や物事に、愛のある言葉を掛けてあげる、励ましの言葉を言ってあげる、小さくても、何か相手や周りの人々の役に立つことを実行していくという事です。
自分自身でこのような生き方を実行すると決めて、それをコツコツと小さなことからでも実行していくのです。
本誌の前号では「四摂事」「四摂法」の話を致しました。今回の「足るを知る」から「足らざるを嘆く」生き方と関連させて読んで頂ければ、更に深い理解と行動へのきっかけになるかと思います。
あの時一声、励ましの言葉を掛けられなかったのは「〝愛語〟が足らなかった」あの時「何か私にできることはありませんか?」と一歩踏み出せなかったのは「〝利行〟が足りなかった!」という具合に、一見消極的な生き方にも見える「足るを知る」を超えて、前向きに、積極的に「まだ愛や慈しみの心が足りないなー!」と大きく転換する人が一人でも増えることが、これからの社会に必要です。
御宝号の念誦が生き方を変える
この大転換を可能にし、力を与えて頂けるのが、私たちにとっての御本尊皇円大菩薩様なのであります。具体的に「南無皇円大菩薩」とお唱えすることが、自分の心を利己から利他に切り替えるスイッチなのであります。
私はこれまで、この「南無皇円大菩薩」の御宝号を、修行の中で数を取りながら唱えてきました。延べにして既に一千万遍を超えています。
それらの御宝号を念誦する中で何度も感じて来た事は、今ここに呼吸をし、声に出して唱えている時も、声にも出ない程の無意識に近い状態で唱えている時も、皇円大菩薩様の方から暖かいものが加わって、体をすっぽりと包んで頂きます。さながら慈悲で満たして頂くような感覚と感動です。
この感覚を一言で言えば、「感謝」と言ってよいものであります。
感謝の心が幸福への道標
どうか皆さん、今現在、あなたが苦難や悩みの中におられる時は、「助けて頂いて有り難うございます」とお礼を申し上げるように、先に感謝の心を込めて御宝号を真剣に唱えて下さい。そうすると有り難いご利益が、あちらからやってくるのです。
更に言えば、まだご利益を頂いてなくても、既にご利益を頂いている気持ちに成り切って、「何か、人様や周りの役に立とう」と決意して下さい。そのための行動を始めることが、幸福になるための大事な事なのであります。合掌
大日新聞(月3回発行)を購読されたい方は、
右の「お申し込みはこちら」からお申し込みいただくか、
郵送料(年1,500円)を添えて下記宛お申し込みください。
お問い合わせ |
〒865-8533 熊本県玉名市築地玉名局私書箱第5号蓮華院誕生寺 TEL:0968-72-3300 |