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2015年03月21日大日乃光第2104号(1)
遥かなるインパールへの古戦跡で英霊への鎮魂と供養の行脚

膨大な戦没者を代償に、アジアの独立に刻まれた評価
 
先月の十四日から二十三日まで、ミャンマーに行って来ました。貫主様が同志の方々と始められた「ミャンマー/ビルマご遺骨帰國運動」の一環として、貫主様の名代としての慰霊団への参加でした。目的地はインドのインパールに近いチン州です。
 
今を去る七十数年前、日本軍がインパール攻略作戦を発動しました。戦った相手は主にイギリス軍でした。

現在ではインパール作戦は、無謀な戦いだったと言われています。しかし、インドやミャンマーの人びとの中には、「このインパール作戦があったからこそ、インドの独立が三十年早まった」
「一時期、日本軍がイギリス軍を打ち負かしたお陰で、ミャンマーは独立出来た」との声を聞きます。
 
インパール作戦の失敗によって、日本軍が負けて退却してくる過程で十万人以上の戦死者が出て、その後昭和五十年代までに五万柱以上のご遺骨が帰って来られました。しかし、未だに四万五千柱以上のご遺骨が現地に遺されたままになっているのです。
 
ミャンマー最貧のチン州で、人生最悪の道との遭遇
 
れんげ国際ボランティア会が活動しているイラワジ管区のように、ミャンマー政府が統治している所を管区といいます。それに対してチン州とかカレン州などの「州」と言われるのは少数民族の居住地なのです。
 
今回行って来たチン州という所は、ゾーミ族が住んで居る所です。近くまでは飛行機で行きましたが、何と申しますか、山また山の、もの凄い所でした…。
 
チン州というのは、ミャンマーでも一番貧しい州だそうです。(政府が管轄している中で二番目に貧困な地域が、現在アルティックが学校を建てている南部のイラワジ管区です)
 
飛行機は、チン州の少し手前の州境いの地域に降りました。なぜならば、チン州には飛行場がありません。病院も大学もありません。そこでまず隣の州に入って、車(ジープ)五台に十一人が分乗してチン州へ向かいました。
 
「山の中に入るとチン州ですよ」と聞きました。ところがその道が何とも凄い!私はこれまでインドからの報告で「インドに行くには〝スペアー命〟を持って行きましょう!」と書いたことがあります。
 
インドの田舎にあるチベット難民キャンプの所在地はたいてい道が悪く、舗装こそしてありますが、その舗装が荒れて穴ボコだらけのガタガタ道でした。ですからこれまでは、海外ではインドの道路事情が一番ひどいと思っていました。
 
しかし、今回のチン州の道はそれ以上に悪く、インドの田舎道をミャンマーのチン州の道と比べたら、〝大人と子供〟と言えるほどの悪路でした。
 
これが悪路の造り方?
 
チン州に入ると、途端に舗装道路ではなくなります。現地に行くと、道路工事をしていました。トラックが大きな石をたくさん積んで来て石を降ろし、道の脇で数名の人が大きなハンマーで割って少し小さくします。

その少し小さくなった石を、今度は普通のハンマーで小さく割って道に拡げて道路を作っているのです。そんなやり方で道路を作ったら、何十年もかかるんじゃないかという印象でした。
日本で道路を造る時は、小さな石のバラスを敷きます。このバラスを道に敷いても、そんなにガタガタな道にはなりません。
 
私が見たチン州の道は、敷く石がコブシ大の大きさなので、すごいガッタガッタ道になるのです。そこを車で通ると体はグラグラ揺さぶられて、カーブや山道では凄い量のホコリが舞い上がります。パウダー状の砂ボコリが三センチ位も積もっていて、歩くとボワーボワーと舞うんです。これは決してオーバーに言っているのではありません。
 
余談ですが、帰国の飛行機ではお尻が痛くて、ついに一睡も出来ませんでした。何しろ十日間、ずーっと悪路を走り続け、車に揺られていたのですから。
 
旧軍設営の野戦病院跡
 
さて、本来の目的の慰霊のために行った場所はどの様な所かと申しますと、インドの国境の近くの山の中でした。そこは、旧日本軍が撤退する時に設営した野戦病院の跡でした。その野戦病院の周りで亡くなった、旧日本軍兵士の方々のお墓もあります。
 
また、私達が行った所からさらに奥地には、まだ手付かずのご遺骨が何千柱もあるのだそうです。少しでも多く、その場所を調査している最中です。(最新の報告では、チン州では三十六ケ所の埋葬地で、千五百九柱以上のご遺骨が特定されたとのこと)
 
当時、野戦病院で水が必要なのと、空からのイギリス軍機に見つからないために、樹木の繁った二十坪ぐらいの川沿いの斜面に設営されていました。そこに毎日新しい負傷者が運び込まれては亡くなりました。
 
亡くなったご遺体は、野戦病院の周りの斜面に横並びに、長さ一メートル五~六十センチ、幅六十センチ、深さ一メートルほどの穴を掘り、埋葬していたそうです。

そこでは毎日二人、三人と亡くなっていたそうですが、穴を掘るのにも労力が必要です。しかし、なにしろ疲弊しきった敗軍でしたから、穴を掘る余力もほとんど尽きていたと思います。一つ穴を掘っては、その日に亡くなったご遺体を何体か一緒に埋葬していたそうです。
 
そのようにして埋葬された所で、私達は鎮魂の意を込めて、供養のお参りを致しました。そのご苦労と無念さを思えば、涙が止めどもなく溢れてきました。
 
付近に点在する数々の旧軍埋葬地
 
私達が訪れた場所で一番奥地にある埋葬地のご遺体は、一旦掘り起こされたそうです。その中には成田山のお札やヘルメットや飯盒(はんごう)があり、日本人の名前や日本の会社の屋号が入っていました。これらから、この方々は間違いなく旧日本軍の兵士なのです。
 
軍隊では、「飯盒は最後まで手放すな!!食べなければ生き残れないからな!」と教育されていたそうです。ですから最後まで飯盒を持っていたようです。亡くなった後で、その方のお墓の上にヘルメットと飯盒が置かれていた所もあったそうです。
 
村の人達にとって、これらの埋葬地を畑にするなど開発するというのは、さすがに怖くて今まで出来なかったということです。他にも村の人びとが近づかなかったために当時のままになっている、そのような所にもお参りしました。
 
チン州内で日本軍がイギリス軍に最後に抵抗した丘がありました。そこは〝タコツボ陣地〟と呼ばれている場所でした。蛸の脚のように、中心から五、六百メートルぐらい、ずーっと地下壕が掘られているところもありました。そこもイギリス軍の爆撃によって塹壕ごと埋もれてしまい、中には相当数の方がそのまま生き埋めになっているとのことでした。
 
現地の人の話によれば、この丘の戦いが、この地域での日本軍の最後の組織的な抵抗で、その後イギリス軍の空襲もなくなったという事でした。(続く)



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