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2015年04月07日大日乃光第2106号
「十善戒」を前向きに実行して良き個性の花を輝かせよう

一斉に咲く桜と人間の多様性を考える
 
こちら玉名では、綺麗に咲き誇っていた桜も本誌が届く頃には葉桜になっていることでしょう。桜前線は日本列島を北上しながら、それぞれの地域の人々を楽しませている事と思います。
 
私達が「桜」と言う時、現在はその八十パーセントがソメイヨシノ(染井吉野)という品種だそうです。
 
ソメイヨシノは見栄えが良く、花も大きいので一気に日本全国に広がりました。そのソメイヨシノは全てが同じ遺伝子を持っているので、それぞれの地域で一斉に花を咲かせてくれるのだそうです。それはそれで素晴らしい事です。その反面、病気にかかる時にも一斉に同じ病気にかかってしまうのだそうです。
 
私たち人間社会にこれを当てはめてみれば、同じような性格、同じような個性を持った人だけが集まれば、一見まとまりが良さそうですが、外から大きな力が働いてくると意外にもろい集団になるのかもしれません。
 
「人それぞれに花あり」と言う時、その人の特性や個性が輝いていて、それがその人の良き花という意味で使われます。
 
また、現代は〝個性尊重の時代〟とよく言われます。その意味では、ある意味で全く同じ特性を持つソメイヨシノを賞(め)でる一方で、それぞれの特性を持った個性的な花を大切にする時代という事になりそうです。
 
真の個性は我欲を超えるもの?
 
その一方、多くの小学校や中学校、高校、更には様々な職場では制服が定められています。この制服の着用は、個性尊重とは一見、相反することのように見受けられます。
 
これは仕事の内容や職種によっては、個性的であってはならない仕事、例えば警官や消防士のように公に奉仕し、社会の秩序を保つための仕事の場合には、制服は無くてはならないものでしょう。
 
その他にも数多くの制服があります。私達僧侶が修行道場で身にまとう、決められた袈裟や衣などの僧衣は、個性を削ぎ落とすための修行にふさわしい服装と言えるでしょう。
 
ここではまさに、自分の個性を殺し、我儘な我欲を抑え、大いなる佛様の世界に身を委ねるために身につける衣なのです。そして、生半可な個性を超えて身についた立ち居振る舞いは清々しく、爽やかな印象を周りに与えるに違いありません。
 
僧侶の修行だけではなく、全ての仕事が、単に生活の糧を得るだけでなく、そこに日々の工夫と「職場は人格を高める道場」との覚悟さえあれば、表面的な個々の個性を超えた、もっと確かな、更に意味のある徳性まで高められた真の個性になると思うのです。
 
その意味では、自分を鍛えることで真の個性が輝き出すのです。それとは逆に、何もしないままの個性は本当の個性ではなく、単なる我欲の違いなのかもしれません。
 
規則と「持戒」の違いとは?
 
この個性を奪うように見える制服や、職場の約束事は、前号の本誌でお伝えした、菩薩の修行としての「六波羅蜜」の内の二番目の「持戒波羅蜜」に相当します。
 
「持戒」とは、自らに『それでいいのか?』と〝戒め〟を振り向け、しっかりとそれを保つのが、本来の意味合いです。
 
そもそもは他の人から「これをしてはならない」と言われて、はじめてそれを守るというものではないのです。
 
ですから制服を着るのも自からの意志で着用するべきで、職場で決められた約束事を守るのも、自分自身の意志で守るべきものなのです。もっとも、小中学生が制服を着る時は、そこまでは思い至らないでしょうが…。
 
しかし、無意識に着ていても、周りから「この子は○○校の生徒」と見られる事によって、いずれ本人も○○校の生徒らしくなる、というものです。
 
この「持戒」に即して言えば、例えば「十分前には職場に着くようにしよう」と自ら戒めを決めたとします。するとそれを守る事は、人に言われた約束事だからではなく、自分自身で決めた事を自らの意志で守る事になり、その人なりの個性的な生き方を方向付けるものとなるわけです。
反対に「職場の業務規定や就業規則さえ守っていればよし」とするのは、まさに個性的ではない生き方になるのかもしれません。
 
単なる規則を超える、積極的な生き方
 
ところで「戒」として、私達が『在家勤行次第』でよくお唱えしているのは「十善戒」です。
 
①不殺生…みだりに生き物を殺さない
②不偸盗…盗みを働かない
③不邪淫…邪な男女の付き合いをしない
④不妄語…うそ偽りを言わない
⑤不綺語…不必要に飾った事を言わない
⑥不悪口…人の悪口を言わない
⑦不両舌…悪しき二枚舌を使わない
⑧不慳貪…貪りの心を起こさない
⑨不瞋恚…不必要な怒りの心を起こさない
⑩不邪見…邪な曲がった見方をしない
 
これを前号でお伝えした真言密教の「三密の修行」に当てはめてみると、①~③は私たちの体で行う事、即ち【身密】であり、④~⑦は言葉に対する戒めを説く、つまり【口密】であり、そして、⑧~⑩は心の在り方に関する戒め、つまり【意(心)密】に相当します。
 
ところでなぜ、これらの戒めを〝十戒〟と言わずに〝十善戒〟と言うのかと申しますと、以下に示すように、単なる戒めには終わらない教えを表しているからです。
 
①の不殺生は単に「生き物を殺さない」のではなく、様々なご縁のある命を「愛おしみ、大切にしていこう」と積極的に、前向きに受け取めて、生活の中で実践する事が大切なのです。
ですからこの戒めは単なる約束事や決まり事の範囲を超えて、「生き方」の次元にまで高められた教えなのです。
 
②不偸盗の「盗みを働かない」も、単に他人のものを盗まないだけにとどまらず、さらに一歩進めて、自分の財や知識、或いは体で出来る事などを他の人にサービスしていくという、つまり「布施」の立場に立つというように発想を大転換する教えなのです。
 
③の不邪淫も、男女の違いを乗り超えて、お互いが積極的に活かし合う、助け合うというようにして行くことで、意味が深まる戒になり、更に良い人間関係が始まることでしょう。
 
「~しない」から「~する」へ
 
ここまでが私達の身体に対する戒めです。
次の④不妄語から⑦の不両舌までが言葉に対する戒めですが、「十善戒」の内の四つと一番多いのは、人には言葉による過ちが多いからとも考えられますし、「言葉の使い方を変える事で、人は変わり得る」という事でもあります。
 
④の不妄語は「妄語をしない」「嘘を言わない」という事ですが、ここでも「~しない」という単なる禁止ではなく、「相手を喜ばせる、思いやりのある言葉で励まして行こう」という、前向きに良い意味合いに捉え直して積極的に実践して行こうとする教えなのです。
 
昔の大阪では、丁稚さんが一人前になったかどうかを見分けるには、「相手が『おだてられている』と気付かないような〝おべっか〟が言えるようになったかどうか」で見極めるというのがあったそうです。
 
これは⑤の不綺語とも関連してきます。
相手が気持ち良く感じ、不愉快な気持ちにならず、実害も無いなら、これは妄語や綺語、悪口、両舌とはならない、言葉による「布施」という事が出来ます。
 
このように言葉によって周りを和やかにし、時には相手に勇気を与え、さらには人を励ますのも、言葉によるところ、大なるものがあります。
 
人を喜ばせる「二枚舌」は?
 
私の恩師に、数多くの人達の仲人さんを務めた方がおられました。この方の話を聞いていると、決して人の悪口を言われません。それどころか、必ず様々な人の良い所を見つけて誉めておられました。
 
例えば⑧の不両舌の、この「二枚舌」は、使い方次第で人と人を喧嘩させる事も出来ますが、反対に先の恩師のように、互いの長所を上手に伝えながら、その二人を結婚にまで導いていく事も出来るわけです。後者は良い意味での「二枚舌」とも言えるでしょう。
 
このように「十善戒」をただ与えられた決まり事や命令、規則として受け止めるのではなく、前向きに積極的に受け止めて行くことが大切です。そしてもっと自分の個性を発揮して、生活の中で自分らしく実践していくことが、「十善戒」の説く本来の教えなのです。
 
言葉に込める思いが良き生き方を導く
 
「十善戒」には体に関する戒めが三つ、言葉に関する戒めが四つ、そして心に関する戒めが三つあります。(心に関する⑧不慳貪⑨不瞋恚⑩不邪見については、次回以降でお伝え致します)
 
言葉に対する戒めの中で、どれか一つか二つ、自分の得意な分野から、自分にも出来そうな所から始めてみましょう。
 
その時「相手を、周りの人を喜ばせよう」という思いを持って接し、話せば、必ずや相手に伝わるはずです。
 
これを続ける事によって、これまでと違う生き方に変わり、それが良き個性になっていくに違いありません。合掌




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