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大日乃光






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2015年04月23日大日乃光第2107号
「前向きな生き方で福徳と智慧を集めよう」

旬の恵みを頂く
 
四月も中頃になりますと、本院の五重塔周りの池の周囲に植えられたモミジが瑞々しく生き生きとした若葉を広げています。
 
つい先日までは、タラの芽を天婦羅にしたり、芹のご飯など天地自然の恵みを美味しく有り難く、寺内の皆で頂戴していました。
 
それからわずかの間に本院周りの小道の草木にも、そこはかとなく初夏の訪れを感じるようになりました。
 
三年籠山で散策した小道
 
この小道は、南大門から時計回りにほぼ一キロの散歩道になります。東西二百メートル、南北三百メートル四方の約一キロの道程を、二十三年前の「三年籠山」(先代真如大僧正様の後を承けて、三年間、寺の境内から出ないと自ら決めた修行)の間、何百回歩いたか分かりません。
 
その道の一部は、蓮華院が創建された八百年前から、戦国時代に焼失した四百年前の昔、そして現代に至るまで、ほぼ同じ所を通っています。それは昔の蓮華院淨光寺の境内を取り囲む、境界の道でもあるのです。
 
私は最近再びこの道を散歩するようになりました。同じ道を同じ時間に歩きますと、景色は同じでも木々や草花、遠くの山々の色が少しずつ、ほんのわずかずつ変化していることに気づかされます。四季折々の変化の中で、豊かな自然の恵みを、朝日の光の中に実感する今日この頃です。
 
三密の修行に照らして「十善戒」を前向きに捉える
 
さて、前回は『在家勤行次第』に出てくる「十善戒」を生活に取り入れて、その中で個性を発揮するための具体的な手立てをお伝えしました。
 
そこでは身体にまつわる三つの戒めとして「不殺生」「不偸盗」「不邪淫」(真言密教の「三密の修行」の【身密】に相当)を説き、言葉にまつわる四つの戒めとしての「不妄語」「不綺語」「不悪口」「不両舌」(同じく三密の修行の【口密】に相当)に関してお伝えしました。
 
この「十善戒」は普通の解釈では、生き物を殺さない、盗みを働かない、人の悪口を言わない、二枚舌を使わない、など「~しない」と表現される禁止事項としての身体・言葉・心に関しての十の戒めということになります。
 
しかしそれだけに留まらず、前向きに積極的に解釈し、全てを活かして高めていくことによって、その人の本当の個性が発揮出来る事をお伝えしました。
 
今回は心の持ち方に関する三つの戒めとしての「不慳貪」「不瞋恚」「不邪見」(三密の修行の【意(心)密】に相当)についてご説明いたしましょう。
 
この三つは実は「貪・瞋・痴」の三大煩悩に相当します。百八煩悩の大本が、この貪瞋痴なのです。それほどこの「不慳貪」「不瞋恚」「不邪見」を解消し、乗り越えるのが難しい、大きな煩悩なのです。
 
所作と言葉遣いにその人の人となりが現れる
 
少し話の方向を変えてお話ししましょう。人が他の人を「この人はどんな人だろう?」と思っても、その人の心の内を知る事は、なかなか出来ません。ですから、その人がどんな表情をしてどんな身のこなしをしているか、どんな声でどんな言葉を話しているのかといった外に現れる事を通じてしか評価したり、判断する事は出来ません。
 
若い頃(三十代まで)の私は、「自分は対人恐怖症か?」と悲観するほどの訥弁(吃り)でした。しかも早口でしたので、周りの人から何を言っているのか充分に理解されない事が時にはありました。
 
そんな頃、先代から「人は、その人がどんな人物なのかを判断する時、その人が何を語り、どんな文章をどんな字で書いているかで見極めるものだ!何としても話し方を克服しなさい」と指導されたことがありました。まさにその通りです。他の人からどう見られるかという時、言葉にハンディキャップがあるのは大きなマイナスです。
 
その半面、五年半前に言葉を無くした妻は、「お早うございます」の挨拶の言葉さえも口に出来ませんが、その代わりに朝から満面の笑顔と笑い声で出会う人と接していますので、挨拶の言葉以上のものを出会う人びとに与えているのは間違いありません。
 
三大煩悩を克服する良き言葉と動作と日々の精進
 
「十善戒」の最後の三つは心の持ち方【意(心)密】に関する戒めです。しかも人間の持つ根本的な三大煩悩「貪・瞋・痴」への戒めであることは先に申しました。
 
ですが、たとえ自分自身でも心の奥底に潜む煩悩を見極めるのは難しく、この三大煩悩を克服するには、表面に表れる言葉【口密】と動作【身密】によって己を見極め、日々努力するしかないのかもしれません。心を綺麗にする掃除道具は、言葉の使い方や、身の処し方の中にこそあると思います。
 
「不慳貪」即ち貪らないためには、奉仕の心を持って、自分に出来る布施や、「無財の七施」(本誌二一〇五号を参照)をたゆまず心がけて実行するしかないのかもしれません。
 
「不瞋恚」即ち不必要な怒りを表さないためには、自分の至らなさを反省しつつ、笑顔を絶やさないように努める事で克服するしかありません。
 
しかし、どんな理不尽な事にもニコニコとしているのは果たして良いことでしょうか?「どうしてもこれは正しくない!」「こんな理不尽なことを神佛はどう見られるだろうか?」というような事柄に対しても、ニコニコと笑っていてもいいものではありません。佛様の慈悲の心に照らして、正しくないことであれば、「慈悲の怒り」を表すことも場合によっては必要です。
 
最後の「不邪見」(邪な見方をしない)の「邪見」は、私達が本来の素直な心になれば、何が正しくて何が間違っているのかを皆分かっているのに、自分の都合や行きがかり、さらには小さな我欲やプライドが邪魔をして、本当の事が見えなくなっている状態の事です。

ですから「正しい事を正しく見る」「間違ったことを間違っていると判断する」ためには、日頃から良き言葉、良き動作、良き習慣などに努める事が肝要です。そうすれば人が本来持っている正邪を見分ける本性が、より良い働きをするに違いありません。
 
煩悩をも前向きに肯定的に捉える真言密教の立場
 
大乗佛教の菩薩が佛道を歩む時に立てる四つの誓いとして、「四弘誓願」(しぐせいがん)というものがあります。
 
一、衆生無辺誓願度
   生きとし生ける全ての命を救済しようという誓い
 
二、煩悩無量誓願断
   煩悩は無量無数だが、これをすべて断って行こうという誓い
 
三、法門無尽誓願智(学)
   佛法の教えは無尽だが、これを知り学ぶという誓い
 
四、佛道無上誓願成
   佛道は無上だが、必ず成佛しようという誓い
 
私達真言宗の僧侶は、この二番目の「煩悩無量誓願断」は唱えません。その代わりに私達は次の誓願を唱えます。
 
二、福智無辺誓願集
   福徳や智慧は無辺で無限であるが、これを集め、身に付けて行こうという誓い
 
それは貪瞋痴などの煩悩をマイナス要因ばかりに捉えるのではなく、煩悩そのものを生きるエネルギーと、前向きに肯定的に捉えるからです。
 
例えば貪りの心が、ある面では人に向上心を与えます。怒りの心が不正を許さない強さを人に与えます。そして邪な見方や生き方の代わりに、先に述べた様な清く正しい生き方をしようと決意するのです。これら前向きな生き方こそ、福徳と智慧(福智)を私達に与えるのです。
 
つまりマイナスとしての煩悩を少なくする生き方ではなく、プラスとしての福徳や智慧を増やして行こう、集めようというのが、この「福智無辺誓願集」なのです。
 
かと言って「良いことをしているから少しは周りに迷惑をかけても構わない」といった奢った生き方では困ります。身を慎むべき事は言うまでもありません。この兼ね合いが難しい所です。
 
福徳と智慧を象徴する多宝塔
 
成熟した日本社会の全体が何となく消極的、後ろ向きになっている現代にこそ、この積極的で前向きな「福智無辺誓願集」の生き方を私達は本気で模索したいものです。この福徳、智慧を象徴するのが三年後に完成を目指す多宝塔なのです。
 
その意味では、閉塞感で何となく元気のない日本社会と私達の意識に、出来ない事への不安や不満を超える勢いが必要です。そしてより良き生き方を積極的に求め、そして物事の道理を弁える智慧を社会に発信しなければなりません。
 
これからの多宝塔の建立が、私達の未来を明るく指し示すものになる事を確信しております。合掌



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