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大日乃光






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2016年02月09日大日乃光第2133号
「ふるさと愛から始まる先人と祖国を思う心」

天皇・皇后両陛下の慰霊の旅に思う
 
まだまだ寒い日々が続きます。皆さん風邪などひかない様、特に若い人々はしっかりと体を鍛えて下さい。若くない人も?それなりに出来る鍛錬を続けたいものです。
 
さて、この文章を書いているのは一月二十六日です。有り難いことに、天皇皇后両陛下は今日からフィリピンへ慰霊の旅に行幸啓遊ばされました。報道によれば、五十四年ぶりのフィリピンご訪問との事。

両陛下は昨年、パラオのペリリュー島に、やはり慰霊のためにお出ましになりました。実はこのペリリュー島には少しばかり、個人的に思い入れがあるのです。
 
三人の友情と故郷愛が生んだ中川州男大佐の伝記
 
十年前のことでした。昭和四年生まれの親友お三方が、私を訪ねて来られました。このお三方のお一人の升本喜年さんは、二十年前に漫画『扶桑龍神伝 皇円大菩薩と蓮華院』の原作を書いて頂いた方です。
 
升本さんは文才があられるので、ペリリュー島の戦いの守備隊長であった中川州男大佐の伝記本を出版しようと奮闘されていて、それを他のお二人が応援しておられました。それは主人公となるはずの中川大佐が何とこの蓮華院のある玉名のご出身で、お三方と同じ旧制玉名中学校(現在の県立玉名高校)の先輩でもあったからなのです。
 
こうして、このお三方を中心に更に同級生や仲間の応援が加わって出来たのが『愛の手紙 ペリリュー島玉砕 中川州男大佐の生涯』という本でした。
 
お三方の、故郷を思い先輩を想うその心の清々しさと熱い友情に、私も世代の違いを超えて熱いものを共有しました。それは、「故郷(ふるさと)を愛するその先に、国を思う愛国心が芽生えるのが順当な愛国心であり、祖国愛であるべき」と、常々機会あるごとに申し上げて来た考え方に通ずるものを感じたからだったと思います。
 
そしてまた郷土愛・故郷愛は、両親を始めとするご先祖様方がその地で時を重ね、家族を育くむ営みが積み重なった場所への愛着と懐かしさと言うことが言えるでしょう。ということは、故郷愛を生み出すのは家族への愛おしさやご先祖様への感謝の心、そして共に遊んだ友達との友情などではないでしょうか?
 
敵味方の恩讐を超えて称賛を浴びた未曾有の激戦
 
先の『愛の手紙』について、平成二十二年八月十一日号の本誌に書いた文章を、一部要約して掲載します。
 
昭和十九年九月、フィリピン東方の現在のパラオ共和国にある美しい珊瑚礁の島、ペリリュー島で、わずか一万人足らずの日本軍が、延べ四万八千人の米兵、そして車輌・船舶・航空機を含めた戦力比で数百倍にも達する米軍を必死で迎え撃ちました。
 
パラオ諸島がもし陥落すれば、米軍の攻勢がすぐにフィリピンに及び、本土と南方資源地帯との海上交通線が寸断されます。そうすれば戦争に勝つどころか、敗けない見込みが完全に失われるのです。
 
この戦いはアメリカ側の予測では、二、三日で簡単に占領出来ると楽観視されていました。しかし精鋭のアメリカ第一海兵師団が四割以上の死傷者を出して壊滅し、陸軍と交代するなど、アメリカ軍にとっても史上かつてない大激戦となりました。
 
戦いは七十三日間に及びましたが、最後には武器弾薬が欠乏し、補給も絶たれた中で、日本軍は『サクラサクラ』の訣別電信と共に総員玉砕するという壮絶な最後を遂げたのでした。

中川州男大佐はペリリュー島の戦いの全軍の指揮を執り、最後には敗北の責任を負って自決を遂げられました。それまでの勇猛な戦いに対して、昭和天皇直々の御嘉賞(お褒めの言葉)が何と十一回も送られました。そして三度の感状(感謝のお言葉)も贈られました。
 
その四ヶ月後の栗林忠道中将による硫黄島の戦いは、平成十八年にクリント・イーストウッド監督によって映画化され、私達にもお馴染みになりましたが、ペリリュー島の戦いは、その硫黄島の戦いや、後の沖縄防衛戦の先駆となり、アメリカ軍の戦史にも特筆される戦いだったのです。
 
中でも、米太平洋艦隊司令長官だったニミッツ提督は敵味方の恩讐を超えて、

「諸国から訪れる旅人たちよ
この島を守るために日本軍人が
いかに勇敢な愛国心をもって戦い
そして玉砕したかを伝えられよ」

という賛辞を寄せられました。
 
その後、スティーブン・スピルバーグが制作した『ザ・パシフィック』(平成二十二年)という太平洋戦争のセミドキュメンタリードラマでは、このペリリュー島の戦いを全十回のシリーズの内三回も費やして描かれました(硫黄島の戦いや沖縄戦ですら各一回分のみ)。
 
そして平成二十六年八月十五日には、終戦記念スペシャルドラマ『命ある限り戦え、そして生き抜くんだ』と題して、本邦初となる中川大佐を主人公に据えた映像作品が実力派の俳優、上川隆也氏によって熱演されました。
 
未だ帰らざるご遺骨はご夫婦の固い絆の証し
 
この著書の最後の方に出ている事ですが、戦後随分経ってから日本政府の支援でペリリュー島のご遺骨収容が始まりました。
 
平成四年には中川大佐自決の洞窟も発見されました。しかし中川大佐の奥様は、そのご遺骨収容団に参加されませんでした。その時の奥様の言葉は、

「まだ多くの方々がこの島に眠っておられるのに、主人は自分だけ先に帰ることを許さないと思います。一緒に戦い一緒に亡くなった方々と一緒に帰ろうと思っているはずです。『俺は一番最後でいいよ』と言っているはずです」と、奥様はペリリュー島行きを望まれませんでした。
 
この部分を読んで、私は涙が出て仕方がありませんでした。中川州男という人は、中国戦線やペリリュー島の激戦の中で、かけがえのない部下を多数失いました。その責任感と部下を思う思いが奥様にもしっかりと伝わっていたのでしょう。
 
また中川大佐はどんな失意の中にあっても、わずかな時間を見つけては奥様に手紙を綴られました。それは殺伐とした様子を微塵も感じさせない内容でした。ただいつも通りに淡々と、時に優しい言葉だけを交えて便りを出しておられました。それは子供のいないままにたった一人後に残す奥様を大切に思い、常に余計な心配をかけまいとする大佐の愛の一念から滲み出た真の優しさに違いありません。
 
本の中では奥様との暮らしも淡々とした描写で、時によそよそしくさえ感じられるほどで、今日の私達の感覚からはあまりにもかけ離れているので、この夫婦の間に心の通い合いはあったのかと思わせるほどでした。
 
大佐が南方へ出征する際の、最後となった会話の中でも、奥様の健康を気遣いながら「エイゴウ演習」に行くと伝えられたのみだったそうです。奥様がその言葉の意味を、「永劫演習」、つまり二度と帰って来ることのない永遠の別れの言葉だったと気付かれたのは、全てが終わった後の事でした。
 
しかし夫のご遺骨を未だ帰らざる他の将兵のご遺骨と共にペリリュー島に残された事で、やはり大佐と奥様は深く深くお互いに心が通じ合い、互いに思いやりを持っておられたのだと確信しています。熊本市内には奥様によって建立された中川大佐のお墓があり、ご夫婦の法名が刻まれています。奥様は最後には夫と共にお墓に入る心情だったということですが、その願いは未だに叶えられていません。
 
建国記念日を迎えるに当たり大切な絆に思いを馳せよう
 
すでに戦後七十年の終戦記念日が過ぎましたが、私達の祖国日本は世界各地に未だに百十二万余柱ものご遺骨を残したままです。
 
そして数年前から皆様にお伝えしているミャンマー(ビルマ)にも四万五千あまりのご遺骨が、まだ故郷にお帰りではありません。果たしてこれで良いものかどうか、皆さんとご一緒に、少しでも考える機会になればと念じています。

本誌の発行日は二月十一日の建国記念日です。改めてふるさとを想う心、祖国を想う心、父母やご先祖様を想う心を振り返って下さい。合掌




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