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大日乃光






大日乃光

2016年03月10日大日乃光第2136号
「五年間の努力が報われたミャンマー/ビルマご遺骨帰國運動」

七十年ぶりの涙の帰国
 
本誌が発行される頃には、すでに先の大戦で尊い命を落とされた旧日本兵の方々のご遺骨十数柱が、ミャンマーの東北部から七十年ぶりに故郷日本に帰って来られます。その場所は、かつてインパール作戦で日本軍が撤退したルートに当たります。
 
年配の方は、このインパール作戦の事を良くご存知だと思います。若い人でも、近代史を少しでも学んでいれば、この名前を聞いた事があると思います。この作戦は食料や武器弾薬などの補給が乏しく、十三万余の戦死者を出した無謀な作戦で、大失敗であったと一般的に伝えられています。私も若い頃はそのように思っていました。
 
同志から衝撃の連絡
 
今から五年前の八月のある夜、一本の国際電話がかかってきました。それはその一年以上前に、奥さんやお子さんが三人いるにもかかわらず自らの生命保険までも解約するという悲壮な覚悟の上で、単身ミャンマーの和平のために現地入りを果たされた方からのものでした。
 
この方とは十二年も前から運命的な出会いを感じていました。そして彼が単身でミャンマーに入って以来、私は毎朝の祈祷の時、必ず彼の身の安全と開運を祈ってきたのです。それ程危険で困難な仕事でした。時には「死ぬなよー」「生きていてくれー」と悲愴な思いで祈った日々もありました。
 
その電話の内容は、現地の少数民族のリーダーから、彼らが支配する地域の人からの伝聞で、次のように聞いたと言うものでした。「ワシはもう九十七歳になる。これまで戦死した多くの部下たちの墓を守ってきた。しかしワシの命ももうそんなに長くはない。聞けば最近この近くに日本の坊さんが来ていると言うではないか。どうかその人に伝えてくれ。そして部下たちの遺骨を日本に連れて帰ってくれるよう頼んでくれ…」この話を電話口で聞いて、私の体に電流が走るような感動を覚えました。
 
後方支援に奔走する日々
 
それから二ヶ月後、電話の主の井本勝幸さんが、日本財団の招きで少数民族のリーダー十三人と共に一時帰国しました。その機会を利用して、八年前に私達が立ち上げた「宗派を超えてチベットの平和を祈念し行動する僧侶・在家の会」(略称=スーパーサンガ)の同志と、井本さんが設立した「四方サンガ」の有志で、「ミャンマー/ビルマご遺骨帰國運動」という期間限定の団体を六宗派二十二名の僧侶とで発足したのでした。
 
日本政府の機関では、未だ和平が達成されていない地域のご遺骨を調査する事が出来ないので、民間団体として和平が実現する前に少しでも多くのご遺骨の所在地を調査すること、そのための資金を勧募することがこの運動の目的です。
 
その後、和平が実現した暁には日本政府(厚生労働省)に引き継ぐことにしていました。当初の予定では一年、遅くても二年後には全ての仕事を政府に移管出来ると考えていたのでした。そしてこの団体が信頼を得るために、著名な文化人や学者、実践活動家などの方々に「呼びかけ人」になって頂きました。
 
こうして始まった「ミャンマー/ビルマご遺骨帰國運動」でしたが、ミャンマーの完全な和平がなかなか実現しなかったことや、我が国でご遺骨帰還のための新しい法案が様々な事情で成立しなかったことなどが重なって、私たちの運動は五年目を迎えました。
 
その間、全国の名も知らない人々や、大切な肉親を戦争で亡くしたご遺族の方々から四千二百万円を超える浄財を頂きました。もちろんその中に、全国の信者の皆様の心のこもった浄財もたくさん含まれています。この機会にあらためて、皆様に心より厚く厚く御礼申し上げます。
 
国が動いた
 
そんな中、井本さん達が集めた情報を元にして、二月二十二日から三月四日まで、ミャンマー東北部のチン州(インパールの近く)に、厚生労働省がご遺骨帰還のために職員を派遣しました。こうしてようやく私たちの責任の一端が国に引き継がれたわけです。
 
そんな中、去る二月二十八日つまり関西支部布教会の当日、しかも私が法話をしているその同じ時間に、現地では十数柱の旧日本軍兵士のご遺骨の焼骨式が開催されていました。現地で厚労省に同行している同志から、以下のような報告が届きましたので掲載致します。
 
ミャンマーで行われた焼骨式
 
焼骨式は大変厳粛な中に執り行われました。甥子さんの光照さんのお経も厳かでした。式典会場には日の丸が掲げられ、祭壇には供物が捧げられ、そこには厚生労働大臣からの供花がお供えされていました。
 
厚労省の職員の方から「メディアの方々はこの場所から動かないでください」と事前指導がなされ、全ての参列者は深々と拝礼を捧げておられました。全ての動きはきびきびとしていて小気味の良いものでした。さらにはご遺骨に背中を向けないように動いておられました。
 
「経過報告」という名の祭文も、「どんなにか故国日本にお帰りになりかったことでしょう。この度ご帰国いただきます」(要約)との言葉もあり、戦後の自虐的な表現は一切ありませんでした。また、これは行政なので仕方がないことですが、全ては宗教色を排した無宗教の式典ですが、最大限に丁寧に式典を実施して頂いている様子に感銘深く参列致しました。
 
尊い死の英霊
 
長年に亘って南方の戦地でご遺骨帰還の奉仕活動をされている方から、以前聞いていた事と、大きくその内容が違っていたのでホッと胸をなで下ろしました。その内容とは、政府の職員はご遺骨の帰還に関してほとんど熱意がなく、仕事だから仕方なくやっているという、ご英霊に対しては申し訳ない様な有り様だと聞いていたのです。
 
今ここで「英霊」という言葉を使いました。しかし自虐的な歴史観に染まった人達は、「戦争で亡くなった人たちはあくまで国の犠牲者であり、決して秀でた霊(英霊)などでは無い」という事を言われる人もおられます。この論法で言えば、すべての戦争犠牲者は国家の悪しき戦争の被害者ということになってしまいます。
 
戦争に「良い戦争」も「悪い戦争」もない!すべての戦争は絶対的に悪である、とする考えを持つ人もおられます。もちろん僧侶である私も戦争を肯定する気持ちはありません。私達は戦争の無い世の実現に努力することは当然です。
 
魂の輝きはどこにあるのか
 
ここで一つ、例え話をいたします。家族団欒の温かい家庭に、突然三人の暴徒が侵入して刃物を突きつけました。そして一番小さな子供に切りかかったとします。その時あなたは「やめなさい」と言いました。それでもその暴徒はやめようとしません。そしてついに刃物が子供につき立てられようとしています。その時あなたはどうしますか?
 
おそらくほとんどの人は、その暴徒に体当たりをするか、刃物を取り上げようとするはずです。そしてその暴徒と戦うかもしれません。その結果、不幸にもその人は逆に暴徒に殺されたとします。暴徒も大きな傷を負いました。

このように暴徒と戦って亡くなったその人は、その家族にとって犠牲者なのでしょうか?それともその周辺の地域の人々から暴徒への加害者と言われるのでしょうか?家族の思い出や歴史と、国家の歴史をそのまま重ねあわせる事はできません。しかしその原点には相通じるものがあるように思います。
 
人は自分のためだけに生きるのでは寂しく切ないものがあります。せめて家族や地域の人々、その先にある同じ民族のために、もっとその先にある、国家や人類のために生きるという思いを持って生きる時、人の魂は生き生きと輝くのではないでしょうか?(続く)



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