2016年03月31日大日乃光第2138号
「八百五十年大遠忌を機に香煙絶えぬ蓮華院信仰へ(1)」
宗派を超えて崇敬を集める大師信仰
弘法大師空海上人様は、生きておられた時から一般の人びとにも広く知られた、人望厚いお方でした。ですから亡くなられるとすぐに「入定留身」つまり、高野山の奥之院に今もお大師様がいらっしゃるという信仰が起こりました。
後に天台宗総本山、比叡山延暦寺の座主であられた慈鎮和尚が「ありがたや 高野の山の岩陰に 大師は未だおわします」と歌われ、そのご遺徳はまさに宗派を超えて人々に讃えられました。
そして明治時代までは、弘法大師様は圧倒的に日本人全員に知れ渡っていました。平安時代末期の『今昔物語集』には沢山の僧侶が登場しますが、中でも格別に多く描かれているのが弘法大師様なのです。
我が国では伝教大師最澄上人様が「大師」号の最初ですが、現在の日本では「大師は弘法に奪わる」と言われるように、「大師」や「お大師様」と言えば圧倒的に弘法大師様の事です。
弘法大師様は高野山に肉体を留め置かれたまま、魂を百億に分かちて、今でも世界中を救っておられるという信仰が連綿と続いています。九州にも弘法大師様の伝説が三百ヶ所くらいあります。杖立温泉(熊本県阿蘇郡小国町)は、まさにお大師様が杖を立てかけたと言われたから杖立温泉と言います。他にも全国に二千ヶ所ぐらい、お大師様の伝説の場所があります。
福岡県大川市には川を渡してくれたお礼にと、お大師様が岸に生えていた葦の葉を一枚川に投げ入れるとエツ(斉魚)という魚となり、漁民の生活の糧となった伝説が残っています。
お大師様は万能の天才
弘法大師様の偉大さを伝えるエピソードに、今から実に千二百年も前に、世界で初めて総合大学を建てられた事が挙げられます。その大学を設立したときの文書が「綜芸種智院式并序」として残されています。
真言密教の経典『大日経』の「初めには阿闍梨、衆芸を兼ね綜ぶ」と、『大般若経』の「一切種智を以て一切法を知る」に拠り、「学問は総合的に学ぶことによって智慧の種が芽生える」という意味です。
当代最高の学者達を集めて教師とし、学生には貴族でなくても平民出身でも良しとされ、世界で始めて身分を問わない最高学府としての大学を作られたのです。さらに全学生と教員への給食制まで完備されました。
かつて蓮華院の仕事を大林組に任せた頃、会社の未来のために『季刊大林』と題して、様々な研究成果を出版されました。その中で香川県にある、日本最大の灌漑用のため池である「萬農池」(明治以降「満濃の池」)の改修工事が特集されました。
度重なる洪水決壊に、朝廷は弘法大師様を築池別当として派遣、約三ヵ月で改修を完了。その構造は、現代建築のような力学を使ったアーチ式のダムでした。まさに土木建築の天才でもあられたのです。
『書道全集』全二十八巻(平凡社)という書籍があり、第十一巻(平安時代Ⅰ)に弘法大師様の筆跡が紹介されています。世に「三筆」という言葉があります。これは弘法大師と嵯峨天皇、橘逸勢の平安時代初期の能書家の事ですが、お大師様がおられなければこの三筆は成り立たないそうです。
よく「弘法も筆のあやまり」と言いますが、このような言葉としても残るようなお方です。「飛白体」と言う言葉の通りに、凄まじく飛び上がるような文字も残されています。
『三教指帰』に書された「虚空蔵菩薩求聞持法」
書の一つに、二十四才で書かれた『三教指帰』があります。
天朗なるときは則ち象を垂れ、
人感ずるときには則ち筆を含む。
『鱗卦』『聘篇』『周詩』『楚賦』、
中に動いて紙に書す。
爰に一人の沙門有り、
余に「虚空蔵求聞持法」を呈す。
阿国大瀧の嶽に擧じ躋り、
土州室戸の崎に勤念す。
谷響を惜しまず、
明星来影す。
私はこれを十八才の時に習い、感動しました。
その意味としては、何か自分に思いがある時には必ず筆で文章に残す。天は象をもたらす。朗らかなる時には良い天気になる。人も何かを感じた時には筆を採って文字に残す。ここに一人の僧侶が居て、私に「虚空蔵菩薩求聞持法」を授けて下さった。私はその修行を徳島県の大瀧の嶽によじ登って行じた。そして高知県の室戸崎でも修行した。すると天地が修行に感応してゴーッと響いた、という意味です。
お大師様はこの修行を、四国や広島の宮島などでなさいました。このように修行を行ったとはっきり記された場所がいくつかあります。
悟りの境地、「谷の響き」と「月食の来影」
私も一度、求聞持行で「谷の響き」を体験しました。私の場合は修行には百日間をかけ、様々な作法の中で毎日真言を一万遍ずつ唱えます。五十日目を過ぎる頃には神経が研ぎ澄まされるのが分かります。最後の百万遍目は日食の時刻に合わせ、その時は真昼間に唱えました。
私の場合、「谷、響を惜しまず。天空、妙音を発す」でした。天空からこれまで聞いた事の無い、UFOが現れたのかと思うような音が響きました。これを「谷、響を惜しまず」と言うのだろうと思いました。
またこの修行には星々の光、明けの明星を拝む作法があります。それは龍が持つ玉で、金星の化身なのです。そういうことを観想しながら拝みます。「明星来影す」とは、明星がグワーッと大きく迫って口の中ににすぽーんと飛び込んできたという表現です。これは二千五百年前に、お釈迦様が悟りを開かれる時にも、「明星来影」と、まさに悟りの表現として『華厳経』に記されています。
私の場合は三回目の求聞持行の時でした。その時は月食に結願する求聞持行でした。求聞持行では明星が見える様に、必ず東向きに座ります。お堂にも明星が見えるように窓が設えてあります。
平成十三年の一月十八日、座していると後ろに熱気を感じました。まさに今、月食になりかかっているのが分かるのです。そんな事は作法に書いてありませんが、私は百八十度後ろをふり返りました。そしてもう少しで百万遍というその時、月が赤銅色に輝きました。それはそれは綺麗な月でした。月が少しずつ大きくなり、迫って来ます。そしてついに自分を包み込むように大きくなったかと思うと体を通り過ぎ、そのまま後ろに去って行きました。
これは錯覚と言えば錯覚、幻覚と言えば幻覚でしょう。しかしこのように、弘法大師様が千二百年前に『三教指帰』に書かれた事を体験させて頂きました。
厳寒の高野山で体験した大師信仰の有り難さ
私が二十一才の時、開山大僧正様は奥之院を一所懸命造成しておられました。私は学生時代で自堕落な生活をしていたので、開山大僧正様はあれだけ頑張っておられるのに、こんなことではいかん、気合を入れようと、一月二十一日から二月十日まで、高野山の奥之院でお参りと水行をしました。修行の時は裸足で夜七時半に出かけ八時半に帰ってきます。
高野山の奥之院にはお大師様の御廟へと渡る「無明の橋」があります。そこに玉川という川が流れていて、その川のちょっと脇の方に肩まで浸かれるような小さな滝があります。そこで滝水を受けながら『般若心経』などを唱えます。
ある時には氷が張っていました。氷を割って水行場に入り、行が終わって褌を代えます。代える間に褌が凍ります。服を着て帰る時には骨の芯からガタガタ震えます。こうして二十一日間の行を終えました。そして今日が最後だからと思い、お大師様の御廟の前で一晩過ごしました。気温は氷点下十度でした。
厳寒の中でも御廟の前には、夜中の二時でも三時でも絶えず誰かがお参りに来てロウソクを点け、お線香を灯すのです。「香煙絶えることなし」という宗教的聖地を表す言葉がありますが、まさに二月十日の一番寒い時期です。十五分、二十分、長い人は一時間、真剣にお参りして行かれます。
こちらはずっと黙って座り、心の中でお経を唱え、瞑想していましたが、そのうちに来る前から人の気配が分かるようになりました。今、橋を三人渡ってきたなと分かるんです。そしてとうとう朝の五時までお参りは絶えませんでした。
「蓮華院の奥之院が、〝香煙絶えることなし〟と言われる高野山の奥之院のようになるまで一生を捧げます」という言葉が、私が蓮華院に帰ってきてからの信者の皆様への第一声でした。今でもしっかりと覚えています。その道程はまだまだ遠いのです。まだまだこれからです。本院であってもまだまだ道半ばなのです。(続く)
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