2016年07月13日大日乃光第2146号
蓮華院歴代貫主に受け継がれた御霊力の方脈(1)
「龍火くだり」断念の雨脚も、大いなる御意思のお働き
全国の信者の皆さん、おはようございます。
早い方では二日前から大祭の準備をご奉仕いただき、また昨日午後二時の「功徳行」から参加された皆さん、そして遠近を問わず全国各地からお参りされている皆様に心から敬意を表します。
昨日は午後六時過ぎの「開白法要」の後、雨脚が強くなりましたので、断腸の思いで「龍火くだり」を断念致しました。この事を宗務長から発表した時、方々から「アー…」と残念がられる信者の方々の嘆息の声が聞こえてきました。
「龍火くだり」の中止は、東日本大震災が起きた平成二十三年の大祭に続く、五年ぶりの事でありました。
奇しくも今年、熊本地震が発生した事を併せて考えますと、何か不思議な意志が背後で働いているように感じられるのは私一人だったでしょうか。
《今年は体調を温存して、大祭に臨みなさい》という皇円大菩薩様の思し召しではなかったかと偲ばれました。
蓮華院中興の原点となった開山上人様の運命の巡り合い
さて、皇円大菩薩様御入定八百四十八年の今日、六月十三日は、開山上人様(御開山是信大僧正様)の御生誕百二十年目の、まさにその日でもあります。
開山上人様は皇円大菩薩様に導かれるようにしてこの蓮華院の地に足を踏み入れられ、そして運命的な邂逅(かいこう=巡り合い)を果たされました。そしてこの事が、当山の中興への起点になったのです。
別な言い方をすれば、開山上人様がこの世にお出ましにならなければ、今ここにどなたも居られないかもしれません。また、私自身も生を享けていない訳であります。
そこで、今回は開山上人様が私に示された様々な事柄をお話し致したいと思います。開山上人様には私の父と伯父(先代の実兄)の二人の息子が居られ、それぞれからの子供、つまり孫が私を含めて七人居ます。
私にとって祖父でもあった開山上人様は、私にとってはそれはそれは厳しく近づき難い威厳に満ちたお方でありました。
物心がつき、しばらくした頃には、普通の家庭で孫が祖父を呼ぶ時のような、「じいちゃま」とか「おじいちゃん」と呼ぶことはありませんでした。もっぱら「おじいさま」と呼び習わしていました。その呼び方が「大僧正様」と変わったのは、私が高野山で修行を済ませてからの事です。
人生の岐路を導かれた開山上人様の御霊力
あれは私が十八才の時でした。当時住んでいた佐賀の東妙寺から姉と弟の三人でサイクリングをして、ある場所を経由して蓮華院に向かう事にしました。
経由地を経てこれから蓮華院に向かうという時、昨夜の様に雨が降り出しました。その時、姉と弟は蓮華院に行くより東妙寺に帰る方が遥かに近かったので、口を揃えて「東妙寺に帰ろう」と言いました。
しかし私はどうしても蓮華院に行かなければならないと、何者かに衝き動かされるというか、何か不思議な力に引き寄せられるようにして、道中の土砂降りの中、雷が轟く中で必死に蓮華院へ向かいました。
蓮華院に着くや否や開山上人様から私だけにお呼びが掛かり、こう言われました。
「お前はこれから高野山に行け…」と。
晴天の霹靂のお言葉でしたが、抗う事も出来ぬまま高野山に登ったのでした。
生まれて初めて登った高野山でも不思議な巡り会いがいくつも重なり、あれよあれよという間に高野山の修行道場の専修学院に身を置く事になったのでした。
十八歳にして、それまでのささやかな全人生を賭けて、〈僧侶の世界とは何なのか?〉〈自分が僧侶になってもいいものか?〉など様々な疑問を抱えたまま〈ここでの修行でこれからの人生を決めよう〉と決意したのです。
あの日、豪雨の中で何者かに引き寄せられる様にして蓮華院に帰ったのが、私の人生の大きな転換点となったのです。
そして専修学院と高野山大学での五年間を経て、その足で蓮華院に帰って来たのが昭和五十一年三月十六日、開山上人様に、「これから一番若い弟子としてお仕え致しますので、ご指導の程を宜しくお願い致します」とご挨拶を申し上げますと、開山上人様は、「よし分かった!しっかり励む様に…」と力強くおっしゃったのが、つい昨日の事の様に思い出されます。
一切の疑問を断ち切った〝接ぎ木〟の御説法
その頃、開山上人様は奥之院の外境内に数千本の銀杏を植樹されていました。そんな中で、私は蓮華院に帰山したその年から二年間、銀杏の接ぎ木をしていました。最初の年は専門の接ぎ木職人さんの指導を受けながら作業をして、二年目には一人で接ぎ木の作業が出来るようになりました。
帰山して一年が過ぎた頃、私には幾つかの疑問がありました。その最大の疑問は、〈当分は開山上人様が居られるので何も心配はないが、将来開山上人様がお亡くなりになった後、これ程絶大な御霊力、御祈祷力は少々の努力では引き継ぐ事が難しい…〉というものでした。
そんな疑問を抱えながら接ぎ木の作業をしていた時、突然開山上人様からお声がかかりました。何事かと思いながら、慌てて身支度をして居間に向かいますと、
「今日は是非伝えたい事がある。お前は今接ぎ木をしているが、これは生命力を持った台木に、良き実を実らせる性質を持った接ぎ穂を接いで、多くの実を実らせる銀杏の木にするためだ。
それと同じ様に、五十年前に皇円大菩薩という台木に〝是信〟という接ぎ穂を接いだのだ。その結果今の蓮華院があり、全国の信者がいる。さらには程なくして奥之院が完成する。
しかし、この大木はそろそろ枯れようとしている。お前はこの枯れかかった大木の枝の先に接ぎ木をする事は出来ない。お前は皇円大菩薩という台木に若い〝英照〟というお前自身を新たに接ぎなさい。要は皇円大菩薩に、お前をしっかりと接ぐ事が肝要なのだ!」と。
この言葉はこれまでの私の疑問や不安を一気に晴らす、救いの説法でありました。
私は開山上人様と同じ事をする必要はない。同じやり方をする必要もない。ただ皇円大菩薩様と一体になりさえすれば、自ずと道は開ける。皇円大菩薩様に自分の全身全霊、魂を賭けて向き合えば必ず助けて頂ける、という大きな方向を示して頂いたのでした。
今困難の中にある方は、皆さんご自身が皇円大菩薩様と一体になる程真剣に向き合い、日々心の中に保ち続ければ、必ず大きな救いを頂けるということでもあるのです。まだそうなっていなければ祈り方が足りないか、心の向け方が十分でないかのいずれかなのです。
開山堂に魂を留めて未来永劫に信者を守る
接ぎ木の譬えとして、私に大きな方向を示して頂いた時からわずかに二ヶ月後の六月大祭では、この法座からこんなお話をされました。
それは多くの信者の皆さんのご奉納によって、いよいよ奥之院に開山堂建設の目処が立った事を受けてのお話しでした。
「皆さんの真心からの奉納によって、これから開山堂が建立される事になりました。私はこの開山堂に魂を留めて、皆さんは勿論の事、皆さんの孫子の代、さらには末代までも皇円大菩薩様と一体になってお守り致します。これをはっきりとここでお約束致します」と言われたのでした。
私は先の私への法話の「この大木はそろそろ枯れようとしている」という言葉と合わせて考えていましたので、(ひょっとすると開山上人様の人間としての寿命は尽きようとしているのかもしれない)と不吉な予感を覚えましたが、その事は遂に誰にも伝えないまま、昭和五十二年十二月二十日の御入定の日がやって来たのでした。
その後、中興二世を拝命された真如大僧正様は、開山上人様が皇円大菩薩様からの御霊告を受けられて、当山中興の端緒となった昭和四年十二月十日から四十九年後の同じ日に、開山上人様の後を受けて全国の信者の皆様の為のご祈祷を開始されたのです。(続く)
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