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2016年08月13日大日乃光第2150号
皇円大菩薩様の大慈大悲の御誓願を叡尊上人の御教えから読み解く(1)

皆さん、こんにちは。悪天候の中、ようこそお参りされました(当日は大雨でした)。

先程寺務所に、毎月十三日の月参りを発願して名古屋からお参りされている信者の方からお電話が掛かって来たそうです。「博多に着きましたが、大雨で新幹線が動きません。非常に残念です」と仰ったそうです。そういう方も大勢おられる事でしょう。本当に有り難い限りです。
 
生身の菩薩として歩まれた叡尊上人のご遺訓に学ぶ
 
さて、私達を日頃お守り頂いている皇円大菩薩様という佛様はどういうお方なのかを、今日は別な方向からお話し致します。

歴史的にはまさにここ、玉名市築地のこの蓮華院の境内でお生まれになって、十五、六才頃に比叡山に登られました。その後どのように生涯を歩まれて桜が池に御入定になられたのか、何度もお伝えしておりますし、この本堂に絵伝も掲げてありますので、すでにご存知の方ばかりと思います。

しかし皇円大菩薩様がどういうお考えや思いを抱かれている佛様なのかを推察するには、歴史書としての『扶桑略記』以外に遺された文章がなく、想像するしかありません。

そこで私なりに考える中で、同じく菩薩としてのご生涯を歩まれた先師の方々のお考えが参考になると思いました。

当山は真言律宗という宗派に属しています。その真言律宗を興したお方が、興正菩薩叡尊上人です。有り難いことに、お弟子さん達が書き留められた文章にそのお言葉が遺されていて、総本山の西大寺でこのお方の七百回忌を記念して、『興正菩薩御教誡聴聞集』という本が出版されました。それには、ある時に叡尊上人がこのようにおっしゃいましたと、全部で七十七項目ほどあります。
 
天災が人を誤らせるか、人の欲望が天災を誘発するか
 

去る四月十四日に熊本地震が発生し、当山では皆さん方に納めて頂いた多額の浄財のお陰で、様々な被災者支援活動を継続的に行なっております。

そこで叡尊上人のお言葉の中に天変地異に関する記述や、それが起きた際の心構え等が記されていないかと、改めて先の『聴聞集』を読み直しました。すると天変地異の一種として、旱魃(ひでり)に遭った時にどのような心構えで臨むべきなのか、僧侶としてどう対応すれば良いのかが記されているのを見つけました。

難しい言葉遣いが多いのですが、心を正して戒律を守り、慎ましい生活をして雨が降るように祈念する。「持斎祈雨の事」という叡尊上人八十四歳の頃の言葉が残されています。

以下、要点を申し上げますと、当時はどういう仕組みで雨が降るのか、今日のような天候や気象分析などの知識がありませんでした。ですから伝統的な佛教の考え方による解釈や信念、思いが記されています。

旱魃、即ち雨が降らないのはどういうことか。それは悪しき神々と修羅が結託して人間を悪い道に引き込もうとしている。雨が降らなければ人々は食べ物に飢え、場合によっては他人の物を盗んだり、迷惑をかけても自分だけは生き残ろうとする。そういう闘争本能が呼び寄せられたり煽られたりする。悪い神々や修羅が人間の心に悪を生じさせるために、そういう災いを為しているのだとされています。

それにどう対処するのか。それは私たちが良い心を持ち、日々の生活の中で約束事をきちんと守り、人々のために良いことをして慎ましく生活をする。すると良い神々と善龍によって、悪い神々や修羅を追い出す事が出来る。その結果、必然的に雨が降るのだという考え方です。
 
異常気象や地球温暖化は、邪な心が世界を覆った結果
 
ここだけ読めば、現代科学を知っている私達にすれば、ちょっと違うのではないかと思われる人が出てくるかもしれません。

私達は明治以降の近代的な科学知識によって、内なる心と外の世界が全く別なものであり、両者は全く関係ないと考えてしまう傾向にあります。

しかし近年の異常気象や地球温暖化については、私たちの心の在り方が厳然として問われています。欲望の赴くまま、「もっと便利に」「もっと快適に」という飽くなき欲望で資源を浪費し、自分さえ良ければいいという我が儘な心が地球を覆った結果であるとも言えるからです。

叡尊上人も旱魃に際し、そういう邪な心を皆が反省し、慎ましい暮らしで生きる時に、天の良き神々がそれに感応して雨を降らせて頂けると、そう表現しておられます。

つまり自然現象への説明の仕方(理屈)は今と違いますが、当時も今も人間の心が自然現象を左右すると考える点では、実は全く同じなのです。

ですから当時の言葉を古臭い佛教的な単なる迷妄、迷信だ!修羅などいない!と表面的に捉えて斥けるだけでは、物事の本質を見極めることは出来ません。
 
鎌倉時代の奇蹟となった戒律復興による佛法の興隆
 
叡尊上人は、お坊さんたちのためだけでなく、一般の多くの人びとのために戒律を復活させようとなされました。それは佛法がもっと良くなり、神佛の力をもっと強めるために、佛法による生き方を復活させようとされたのでした。

お釈迦様の時代と全く同じ生活は到底できませんが、お釈迦様のお心をしっかり汲み取り、少しでも社会を良くしようと、七百数十年前に戒律を復興されました。

その中でみなさんにも解りやすい考え方として、「三聚浄戒」があります。全てに通用する三つの浄らかな戒という意味です。

戒律の「戒」は自分に振り向けるという意味です。自分に「これでいいのか」と問いかけるのが戒です。戒律の「律」は規律の律ですから色々な決まり事です。お寺を運営するための、またお坊さんとして共同生活をするための約束事です。こういうことをしたら教団から追放しますと書いてあるのが律です。

戒は自分で決めて自分で守っていくものです。しかし日本では、この戒律がなかなか定着しませんし、しにくい状況にあります。

それより前の時代もずっとそうでしたが、その中で鎌倉時代の叡尊上人とそのお弟子さん達は本気で戒律復興に取り組まれ、叡尊上人を始め多くのお弟子さん達の努力で奇跡的に素晴らしい成果を上げられました。
 
「十善戒」を前向きに読み解く「三聚浄戒」とは?
 
その戒を三つにまとめたのが、「三聚浄戒」です。

まず第一が「摂律儀戒」です。
摂は摂取、即ち戒律の約束事をきちんと守るという戒律。もっと解りやすく言えば、「止悪」悪い事をやめるという意味です。

先ほどのお参りで「十善戒」を唱えましたが、これはまさに「摂律儀戒」に当たります。

「不殺生」生き物を殺さない
「不倫盗」盗みを働かない
「不邪淫」邪な男女の交わりをしない
「不妄語」嘘偽りを言わない
「不綺語」おべっかを言わない
「不悪口」乱暴な言葉を使わない
「不両舌」二枚舌を使わない
「不慳貪」自分の欲望に任せて貪らない
「不瞋恚」不必要な怒りを表さない
「不邪見」曇った目にならない

この「十善戒」は全て悪い事を禁止する内容です。これをなぜ〝十の善き戒〟と書くのかと言えば、戒める内容を逆にすれば良い事になるからです。

この積極的に良いことをしましょうというのが第二の「摂善法戒」(修善)です。
先ほどの「十善戒」で言えば、生き物を殺さない「不殺生」の反対は、積極的に生き物の命を生かし、慈しむ事です。

盗みをしない「不偸盗」の反対は、周りの人びとや他人への施しです。

「不邪淫」の反対は清らかなおつきあい。

「不妄語」「不綺語」「不悪口」「不両舌」の逆は、相手の人間性を尊重して相手が元気になるような言葉をかけてあげることです。言葉によって出来ることはたくさんあります。

言葉をかける事の反対に、相手の話をじっくり聞いてあげる、そういうことにも広がっていきます。
熊本地震の被災者支援で行なっている「傾聴ボランティア」は、まさにこれに当たります。

第三が「摂衆生戒」(利他)です。
すべての生き物を助けようとか、他の人のためになることを、積極的に実行する事です。第二の「摂善法戒」と第三の「摂衆生戒」は非常に近い内容ですが根本的に違うのは、それをより広く応用して行く点にあります。
 
まず悪を為す事を止めなければ 善を修め、利他を及ぼす事も叶わない
 
一般的には何々してはいけないというのが本来の戒律と思われるかもしれませんが、実はしてはいけないというのは三分の一に過ぎず、残りの三分の二は前向きに「何々をしましょう」という事なのです。

人々を励ましましょう。自分にできる良い事なら、その行ないが例え大海の中の小さな一滴に過ぎないほど小さくてもやり続けましょう。自分の心を込めて進んで実行しましょうと、そういう考え方なのです。

ここで注意しなくてはならない事は「良い事や人助けをしているから、少々なら悪い事をしてもいいだろう」と思う人が現れるかもしれない点です。

「悪い事をしない」摂律義戒(止悪)が不充分なまま、その様な心構えでは、後の二つの摂善法戒(修善)と摂衆生戒(利他)も充分な力を発揮出来ないと、叡尊上人はお弟子さん達に説いておられます。
私達は充分に心しなければなりません。  (続く)




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