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2016年08月18日大日乃光第2151号
皇円大菩薩様の大慈大悲の御誓願を叡尊上人の御教えから読み解く(2)

【今回のあらまし】

前回に引き続き、鎌倉時代に生身の菩薩と人々に称えられた叡尊上人の御遺訓を元に、貫主様が皇円大菩薩様の大慈大悲の御誓願を解き明かされます。

前回は、天変地異に際し、人として正しい生き方に努めるように叡尊上人が説かれた事、佛法を興隆させて世の中を復興しようとなされた事をお話しになりました。

そしてそのための戒律復興と、その中心となる「三聚浄戒」について、「十善戒」と照らし合わせてお示しになりました。

今回の後編を読み進まれますと、大慈大悲の菩薩道という点で、御本尊皇円大菩薩様と、当山が叡尊上人の真言律宗寺院である事の意味が有り難く感じられることでしょう。
 
コンペイ糖のように角を増やし、長所をさらに伸ばす発想の転換
 
人はよく、歳を重ねて角がとれると丸くなると言います。これは実はそうではなくて、逆に足りない部分を増やしたり長所をさらに伸ばす。そうして行けばやがてはたくさんの角でコンペイ糖のようになり、さらに角と角の隙間が埋まって最後に丸くなる。

角がとれて丸くなるのと、たくさん角を増やしてその隙間を埋めて丸くなるのとではどちらの体積が大きくなりますか?

悪いことをしないのは大切ですが、それと同じくらいに良いことを積極的に実行しようと考えて行動する方が、その体積はより大きくなるのではないでしょうか。私は若い頃からこのような発想をしてきました。

お参りに関して言えば、月に一回お参りするよりも、二回でも三回でも、さらにはご縁日以外でも積極的にお参りしようとする方もおられます。

それができなくても、「月に一回は何としてもお参りしよう」と。遠方から交通費をかけて、自分で決めたご縁日(十三日)にお参りするのは大変なことです。けれどもそれを自分に課して続けて行く。

実はこの続けて行く努力が、佛様の心に通じる大切な一点なのです。
 
「三聚浄戒」を簡潔にまとめた蓮華院信仰の「三信条」
 
次に自分の心を清めて行くという時に、何が良いことで何が悪いことかは誰でも分かります。三歳の子供から八十歳以上のお年寄りに至るまで、皆心の中では知っています。

けれども欲に敗けてそれを実行できない。残念なことに、そういった意味で人間は悲しいと言うか、弱いもので、なかなか思い通りにはなりません。

ですから「反省」「感謝」「奉仕」の蓮華院の三信条で、最初に「反省」が来るのです。これは「悪い事をしていないか?」と己に問う「摂律儀戒」(ショウリツギカイ=悪い事を止める)に通じます。

次に「感謝」。「有り難いな」と深く感じれば、そこから一歩進んで何か恩返しになる良いことを周りにして行こうという「摂善法戒」(ショウゼンボウカイ=善い事を実行する)の精神につながって行きます。

そして最後の「奉仕」が「摂衆生戒」(ショウシュジョウカイ=周りの人のために尽くす)に当たります。
そういう意味で蓮華院の教えは、叡尊上人も大切にされた大乗佛教の菩薩の戒である「三聚浄戒」の精神に重なるのです。

それを、先代真如大僧正様が簡潔に「反省に始まり、感謝を経て、奉仕に至れ」とまとめられました。
 
自身の往生よりも「利益衆生」を優先
 
ところが叡尊上人はもっとつきつめてこういうことを言っておられます。当時、叡尊上人は様々な努力を重ねて西大寺を始め多くのお寺を復興されましたが、それは何のためだったのか。これはみな国家や社会が安泰であること、そして「利益衆生」、つまり人々の幸福のためでした。

これを一言で表す言葉が「興法利生」、つまり佛法を復興して世のため人のために役に立つことでした。これこそが目的だったのです。

「自分(叡尊上人)はこの功徳を以て浄土に生まれようとは思わない。また兜率天に生まれようとも思わない」と説いておられます。兜率天というのは弥勒菩薩の浄土と呼ばれています。法然上人が阿弥陀浄土を説かれるより前の時代の浄土です。弘法大師はこの兜率天に往生しようと願われました。

当山の御本尊、皇円大菩薩様も兜率天に往生しようと思われたのではないかと言われています。そういう時代でした。(しかし後述するように、実際には弥勒浄土に安住しておられる訳ではありません)

要するに叡尊上人にとっては、安楽な世界に往くという事が目的ではないのです。浄土に生まれようとも、兜率天に生まれようとも念願されていません。「利益衆生」、即ちひとえに衆生の安寧を、多くの人びとの幸福を本来の願いとされているのです。

僧侶としては専ら私心を捨てて、日々の修行に、日々の活動に邁進する。そういう生き方が天変地異を防ぐことに繋がって行くと説かれています。これをよく考えてみると、皇円大菩薩様の衆生済度の御誓願にそのまま重なります。
 
桜ヶ池での龍身御入定は衆生済度の御修行の極致
 
皇円大菩薩様は自ら兜率天に往って、そこで安楽になるために九十六歳まで修行されたわけではありません。当時苦しんでいる人々が沢山おられたから、そういう人達を救済する力を得ようとされたのです。自らは安楽な世界におられるのではないのです。この願いをまさに究極的につき詰めた修行が、桜ヶ池での龍神に身を変えてのご修行だったのです。

開山大僧正様がよく話しておられました。「龍というのはたくさんの鱗の中に虫が湧き、毎晩体を食い破るほどのすさまじい苦しみを受けているらしいな。人々が味わう苦しみの何千倍、何万倍という痛み苦しみ、苦悩を自ら体験して、その中から衆生済度のための道を見い出してここ(蓮華院)に帰って来られたのだ」と。

私達はそういう有り難い佛様にご縁があるのです。七百六十年もの長い長い苦難の龍身修行を遂げられた皇円大菩薩様ですから、皆さん達が自から必死にお願いしさえすれば必ず助けて頂けます。
ただ必死になれるかどうかの違いだけです。

そういった意味で、叡尊上人の遺された『聴聞集』を読みながら、皇円大菩薩様の衆生済度の御心がどこにあるのかをまざまざと感じ取る事ができました。
 
菩提心を抱きこの世に転生される大悲闡提の生身の菩薩様
 
『聴聞集』の別の項目には、叡尊上人ご自身がこうありたいという願いとして「大悲闡提の菩薩」を立てておられています。

佛教で普通に「闡提」と言えば、なかなか救われない人のことを指します。佛法を信じず誹謗する者を指す言葉で、成佛が不可能な者、あるいは佛性のない者。これが一般的な闡提の解釈です。

「大悲」を付けた「大悲闡提」は、これとは全く異なり大きな悲しみ、大慈心を背負い、自らは敢えて救いを求めない菩薩様という事です。

大悲闡提の菩薩様は、この世の中に救われない人が一人でも残されている限り、安楽な世界や浄土に往かず、敢えて菩薩として苦しむ人びとのそばに留まり、最後の一人まで人々を救おうと決意された佛様なのです。

チベット佛教が生み出した、ダライ・ラマ法王猊下を始めとする生まれ変りが認定されている多くの高僧の方々も、まさに同じ願いを抱いておられる生身の菩薩様なのです。

皇円大菩薩様もそのようなお心持ちで七百六十年もの修行を遂げられた、まさに大悲闡提の菩薩様と言っても過言ではありません。

私達真言宗の僧侶は『理趣経』というお経をよく唱えますが、その中に菩薩様の中でも特に優れた菩薩様というのは生まれ変わり死に変わりしながらも、いつも人々のために役立ち、人々の苦悩に向き合い、人の悲しみを我が悲しみとして寄り添いながら、自分自身は安楽な境地には進まない、という文言があります。

それが密教の説く菩薩様であり、それはそのまま大悲闡提の菩薩様でもあるのです。
 
百千万劫遇い難き佛縁に感謝と祈りを捧げよう
 
今ここに居られる多くの信者さんや私達は、こういう佛様にご縁があり、そしてこの佛様と巡り会い、向き合うことができました。これは信者の皆さん方のご先祖様の功徳のおかげであり、非常に有り難いことであります。

ぜひ皆さん方も、こういう佛様が私たちを見守って頂いているという事を腹の底から実感し、皇円大菩薩様の懐に飛び込み、ぶつかる程の思いで祈りを捧げて頂きたいと念じる次第であります。合掌




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