2016年09月19日大日乃光第2154号
一組の夫婦の誕生からご先祖様へと遡る慈しみの心
最近、とても嬉しい事がありました。それは一組の男女が晴れて夫婦(めおと)になった事です。
私としては、新郎新婦が自分の息子と娘のような気持ちで、戒師(佛前結婚式の導師)を務めました。
ここで改めて、佛様に向かってお唱えし、さらには若い二人とそこに参列された縁者の方々にお伝えする「婚姻の儀表白」の一部を、いま一度読んでみます。
婚姻の儀表白
謹み敬って真言教主大日如来
総じては尽空法界、一切三宝、
殊には当山御本尊皇円大菩薩の御尊霊に言して曰さく
夫れ一組の男女の夫婦となるは
互いの先祖代々の縁(えにし)を因となし
互いの欠けたるを補うを以て根源となし、
互いに愛し尊敬し合うを以て究竟(究極)となす
斯くの如き婚姻に依りて、人は良き人生を全うする因縁の調うものなり
全ての人は両親の深き慈愛によって育まれ、その人格の基礎固まるものなり
この人を育む元となる夫婦の愛と思いやりこそ、家庭の円満、社会の発展、更には人類調和の根源なり
(…中略…)
ここに集いし諸人は、
本日の良き縁を共に確認し、老いも若きも世代を超えて、
個人と社会と世の平安にとって、一組の夫婦の果たす役割の極めて大なる事に、深く思いを致されん事を祈念するものなり (…後略)
インドの昔話
この「婚姻の儀表白」では、人にとっての全ての根本は夫婦の愛と思いやりであり、それが家庭から職場まで、そして人類の調和まで広がっていきました。その根本は何かというお話をいたします。
お釈迦様の時代にとても仲の良い王さまとお妃さまがいらっしゃいました。暑くもなく寒くもない、とてもいい気候の中で二人はお城の上に上りました。
沈む夕日を眺めながらしみじみと、「あ~…、人生は有り難いなー…」(こうして一緒に歩いて来れて有り難いなー…)と、どちらから言うともなしに目と目を合わせて、大自然の沈む夕日の中で、のどかな気持ちになって寄り添っておられました。
その時王さまが、ふと「妃よ、この世で一番愛しい者は誰じゃ?」と尋ねられました。お妃さまも、とてものどかで穏やかな気持ちになっている時にそう聞かれて、素直な気持ちで答えられました。王さまとしては「はい、それは王さまです!」という答えを待っていたと思います。
相思相愛の夫婦でも自分自身が一番愛おしい
ところがお妃さまは「それはわたくし自身です」と、素直な気持ちで答えられました。この世で自分自身が一番愛しいという事を、お妃さまは素直な気持ちで、悪気なしにそう言われたんです。
このお妃さまの返事を聞いて、王さまも「よくよく考えれば、自分も自分が一番愛おしい…」と思ったと言うんです。
二人は深く愛し合っている夫婦ですから、お互いを愛してますという答えを期待していたけれど、とても素直な気持ちになった時には自分を一番愛してる、自分が一番大事だという事にお互いに気づいたんですね。
…でも何か違うと。二人が深く帰依しているお釈迦様の、慈悲とか人の生き方とはどうも違うような気がする。自分が一番愛しくていいのだろうか?という風に、二人とも大きな疑問を抱くようになりました。
自分自身を愛していないと本当に人を愛することは出来ない
そこでお二人でお釈迦様の元を訪ねられました。そして先の出来事を素直に伝えられました。
するとお釈迦様は、「そうなのだ。それが本当に分かったときに、自分を愛おしいと思うように、相手もまた自分が愛おしいのだ」と仰いました。
そして、「あなたの下臣や国民、皆それぞれ自分を一番大事だと思っているという事に本当に気付いたら、お互いに皆自分が大事という事に深く思いを致して欲しい。そうする事によって、そこに本当の意味の思いやりの心や慈しみの心が生まれる。自分自身を本当に深く愛してなければ、本当に人を愛することはできないのだ」という事を仰ったんです。
執着から小さな悟りへ
そこで、この「愛する」という言葉です。「愛」というのは普通、佛教では否定しています。なぜかと言えば、それは「執着」だからです。
「愛用品」などと言って「これが無ければ自分は困る」とか、色んな物に対して愛着を持つ。これは一種の執着であり、それを超えなければいけないというのが、そもそも佛教の立場です。
では、どうやってそれを超えるのか?先ほどの王さまとお妃さまのお話にヒントがあります。二人は自分の事を本当に深く深く理解して、自分が一番大事と思い至りました。実は、この自分の事を深く理解するというのが、小さな悟りと言うか、気付きなのです。
「如実知自心」から生まれる慈しみの心
『大日経』という真言密教の大切な経典には「如実知自心」、実の如く自分を知る(ありのままの自分を知る)事が説かれています。自分の本当の姿を知るという事が大きな気付きであり、悟りでもあり、そういう世界に入っていく入り口なのです。
ですから自分が大事だという事をお互い同士で本当に認め合って、その時に生まれてくるのが「慈悲」の「慈」という慈しみの心なのです。
慈しみの心があれば、色々な物事に囚われる愛、つまり執着から一つ転換して、相手の事を本当に愛しむ事が出来ます。
自分を深く理解して、自分の命の大切さも理解しているから、初めて相手を慈しむ事ができるのです。それはもはや単なる執着ではありません。執着を超えて、自分自身を深く掘り下げるという段階に至っているという事なのです。
一組の夫婦から地域に広がる慈悲の心
新しく夫婦となった二人は、これから様々な人生経験を積んでいきます。楽しい事ばかりではなく、時にはつらい事、悲しい事、苦しい事を二人で一緒に乗り越えて行くでしょう。この悲しみを一緒に乗り越えていく中で愛は深まり、「慈悲」の心が更に育って行きます。
ですから一組の夫婦が本当に自分の事を深く愛し、お互いに相手の事を理解し、深く思いやる、そういう夫婦の関係から全ての人間関係が始まると言ってもいいのではないかと思います。
それが職場に広がって行き、また地域に広がって行き、色んな形で新たな人間関係が始まるのです。二人が手を取り合う事によって、新しい人生が始まって行くようにという願いが先の「表白」の中に込められています。
そういった意味では、私達は自己愛の先に慈しみの心を育てる中で、周りの人に対する思いやりであるとか、奉仕の実践などが充実していくのではないかと思っております。
先祖から流れる慈しみの心
そしてそれが、ひいては自分自身をこの世に生み出して下さった両親や祖父母、さらにはご先祖様の世界まで繋がっていくのです。
この世に子供のいない人はいても、親のいない人は一人もいません。親が自分達をどれだけ愛してくれたのか、どれほど深く思いやってくれていたのか、そういう事に深く思いを巡らす時、子を思う親の無償の愛に佛様の慈悲にも似た深い愛を感じる事が出来ます。
そうすると、今度は自分たちが次の世代にどういう役割を引き継ぐべきなのかに思い至ります。こうしてこの慈しみと愛の心が、両親からそのまた両親、さらにそのまた両親と、ご先祖様からずーっと流れてきた事に気付きます。
ですからご先祖様を供養するという事は、実は自分自身の心の底にある魂の潜在意識から、自分自身をすーっと持ち上げていく、そういう働きがあるに違いないと確信いたします。そしてそれは、回りまわって自分自身をしっかりと支え、浄化して行く事になるのです。
これからお彼岸を迎えるに当たって、夫婦愛の大切さと、それが人間関係の大切な出発点である事に思いを致しつつ、ご先祖様とご一緒に秋のお彼岸に向かって歩まれる事を祈念いたします。合掌
大日新聞(月3回発行)を購読されたい方は、
右の「お申し込みはこちら」からお申し込みいただくか、
郵送料(年1,500円)を添えて下記宛お申し込みください。
お問い合わせ |
〒865-8533 熊本県玉名市築地玉名局私書箱第5号蓮華院誕生寺 TEL:0968-72-3300 |