2017年01月28日大日乃光第2165号
三信条と三項目で未来の為に幸せの種蒔きをしましょう
寒中に当たり願望成就の時差を思う
この原稿を書いているのは一月の十八日です。二十四節気で「小寒」から「大寒」に当たるこの時期が、一年で一番寒い時期ではないかと思います。
実際に日照時間が一番短いのは昨年の十二月二十一日の冬至でしたから、その時期が一番寒くてもいいはずです。しかし、月の引力によって起こされる海の干潮満潮に数時間のズレがあるように、地球上の寒暖にも潮の干満以上に大きなズレがあるのは、地球全体が冷え込むのに一ヶ月以上の期間を要するからなのでしょう。
人の人生も目標を定めて努力を始めても、その成果が現れるには、目標の大きさによっても違うのでしょうが、それなりのズレが生じるようです。
また、この時期は一年の始めの「元旦」を過ぎ、運気の大きな変わり目としての「節分」を数日後に控えています。この節分は今一度、私達が何か新しい事を始めたり、心に決めて決意を新たにするのに相応しい時期でもあります。「一年の計」をまだ立てていない方は、この節分で一年の目標を立てて下さい。
生活習慣の三項目は出来ていますか?
先の一月二十一日号の本誌には、《反省》《感謝》《奉仕》の三信条に加えて、
①互いに挨拶を交わし合う
②食事の時、合掌して「いただきます」 「ごちそうさま」を心を込めて言う
③「はきもの」を揃える
の三項目を三信条に対応させて、日常生活の中で確実に実行して、家庭の良き習慣として確立して頂きたいとお伝えしました。あれからまだ半月しか過ぎていませんが、今一度確認して頂く機会にして頂ければいいのではないかと思っています。
はきものを揃える事は、短い時間でも一度立ち止まって、自らの足元を見つめる事になります。これは広い意味で、自己を振り返る《反省》に通じています。はきものを揃えるという具体的な小さな良き習慣が、自らを顧み、これまでの生き方を振り返る深い内省や、懺悔(さんげ)まで繋がって行きます。
「いただきます」は全てに対する《感謝》の象徴
次に、毎日の三度三度の食事の度に心を込めて合掌して、家族が声を揃えて「いただきます」と口に出して言う事は、(寺内では合掌して二尊のご宝号を三回ずつ唱えています)家族の心を揃える大切なきっかけになります。
食事の時、手を合わせているその先にはご飯やパン、味噌汁など様々な食べ物があります。昔から米には八十八の手がかかっていると言われてきました。現在ではさらに、石油を始め海外からの様々なエネルギー資源を輸入して米を作っていますし、私達の頂く食物の多くは輸入されて目の前に並びます。
ある統計によれば、食料の自給率は三十パーセントとする説もある程です。「そんなに輸入に頼っているの?」という声が聞こえてきそうですが、これは今言ったように、農作業をする時に耕運機等で使うエネルギー消費も含めた場合の総合的な自給率です。一般的には七十パーセント程度の食糧自給率と言われています。
この様な自給率でありながら、私達が家庭で年間に出している残飯等の総量は、国内でのお米の総生産量(約八百万トン)とほぼ同じ量に上るそうです。
「コメ一粒でも粗末にしてはならない!」と、明治世代の祖父母や大正世代の父母から言われ続けて育った昭和二十年代生まれの私には、この国土で育てられた米と同じ量の残飯を出し続けている現状は、ある意味「罰当たり」な事に映ってしまいます。同じ様に感じる人は多い事でしょう。
その意味でも、この食事の前の合掌と「いただきます」という言葉は、「今、目の前にあるすべての食べものは命を持っていた生きものであり、その命に対して『いただきます』」と言う、深い意味が込められている言葉なのです。
一日に三回、この命への感謝の言葉を実際に口に出して言う事は、三信条の《感謝》を象徴する言葉であり、全ての命への感謝を通じて、更には神佛への感謝へと繋がっていく大切な言葉であるに違いありません。
挨拶は言葉による《奉仕》
そして挨拶の本来の意味は、「心を開いて相手の心に迫る」という事です。
家庭においては互いに明るく挨拶を交わし合う事によって、家族が互いに明るい心を配り合う事になります。さらに職場などで、自分の方から明るく元気な声で「おはようございます!」と声を掛ける事そのものが、相手への無償のサービス、奉仕、更には「布施」でもあるのです。
ですから、自分から明るく挨拶の声を掛けていく事そのものが、三信条の《奉仕》への、小さくとも確実な一歩になっているのです。
初まいりでお配りした〝バンペイユ〟の逸話
先日の十三日の「初まいり」では、「除夜の鐘」の数え餅を始め、お供えの鏡餅や信者さんがお供えされたお菓子、多くの果物、更には子供の頭ほどの〝バンペイユ〟(晩白柚=熊本特産の大きな柑橘類)、カレンダーなどを、参詣された信者の皆さんにお分ち致しました。
その中で、特に印象深かったのは晩白柚です。これは、平成二十五年の十月に八十四才でお亡くなりになった、蓮華院の信徒会長であられた久田孝之さんが、十年ほど前に準教師の前田さんから苗木を譲ってもらい、丹精込めて世話をされていた晩白柚です。その木が今年初めて、何と十三個の大きな果実を実らせたのだそうです。
それを娘の晃子さんが、「初物ですからお供えして頂いて、その後初まいりにお参りされた皆さんにお分ちして下さい」と晩白柚の実十三個全てを、名古屋からわざわざ手間をかけて届けて頂いたものだったのです。
三年半前にお亡くなりになった久田孝之さんご本人は、ついにその晩白柚が実った姿を見る事はなく、その実を食べる事もなく、あの世に旅立たれました。しかし今後数十年は、その木が晩白柚を毎年実らせ続ける事でしょう。
この様に、自らはその恵みを味わったり福を体感することがなくても、幸運や福の元を植えて後世に恵みを巡らす事を、明治の文豪幸田露伴は『努力論』という本の中で「植福」と著しています。
「福を惜しむ」とは?
この『努力論』には「三福」が述べられています。
まず最初は「惜福(セキフク)」と言って、恵まれた幸運を使い尽くす事なく、大切に惜しみながら使う事によって、その恵みを存分に活かす事です。
例えば二人の兄弟がいたとして、同じ様に新しい服を親に買って貰ったとします。兄の方はその服を気に入ったので、いつもいつも着ていました。すると大切な時に着ようとしても、傷んでしまって晴れ着としては着られません。
一方弟は、同じ様に新品の服を貰っても大切にしまって、日頃は古い服で我慢していました。その内に晴れ着を着るべき時に、大事にしまっていた新品の様な服を着る事が出来たというお話です。
私達の世代は、正月になると靴や服を親から買って頂き、とても嬉しかった事を憶えていますので、この「惜福」の例え話は実感としてよくわかります。
利他行の実践としての「分福」と「植福」
次の「分福(ブンプク)」は、自分に恵まれた幸運を自分だけで使ってしまうのではなく、他の人にもお分かちする事を表しています。この様な「布施」の心で周りの人々と分かち合うことを「分福」と言って、「惜福」からさらに一歩踏み出して、人が幸せを実感し、広く周りを幸福にする方法を説いています。
そしてその「分福」をさらに進めた幸福への道が、先に触れた「植福(ショクフク)」なのです。後世のために、たとえ自分では味わうことのないことであっても良き種を蒔き、苗を植えておく、良き習慣を家庭の中で定着させていくなどの、未来を照らす長い視点で人々を幸福に導く究極の道が、この「植福」と言ってもいいでしょう。
道徳、人徳を高める良き生活習慣
さて、「家庭内に良き習慣を定着させる」と言いましたが、この習慣という言葉はラテン語やギリシャ語では道徳や人徳と同じ語源から生まれたということを最近知りました。
私達は日頃あまり意識しませんが、良き習慣を身につけ、それを個性にまで定着できれば、そこには人の道に適った道徳的な生き方が生まれ、人徳さえも備わった生き方に高められるに違いありません。
①互いに挨拶を交わし合う…《奉仕》
②食事の時、合掌して「いただきます」「ご ちそうさま」を心を込めて言う…《感謝》
③「はきもの」を揃える(時には他の人の はきものも揃える)…《反省》
といったごくごく当たり前の習慣を、家庭の中や、更にはもっと広く社会でも実行する人が増えれば、私達の社会は道徳的で人望のある人が増え、より良い社会作りの出発点となるに違いありません。
世間や世界の様々な矛盾や混乱をただ嘆くより、未来のために良き種を蒔き、苗を植えるような思いで、小さくとも良き習慣を、まずは家庭の中から実行して頂き、私達の人徳と言えるまで高めていきたいものです。
ダライ・ラマ法王猊下の笑顔の理由
思えば十二年前に当山にお越し頂いたダライ・ラマ十四世法王猊下は、チベットの祖国がどんなに絶望的な情況にあっても、常に前向きで明るい笑顔でインタビューなどを受けておられます。
ある人の、「なぜそんなに前向きで明るくしていられるのでしょうか?」という問いに、
「私は未来のために良き種を全力で蒔いているからです」と答えられていたのを思い出しました。
運気の変わり目の節分を前に、星まつり祈祷で皆さんの願いを叶え、運気を高めつつ、日々の生活の中で良き習慣を実行して頂いて、元気で明るく幸福な日々を送られますよう祈念致しております。合掌
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