2017年06月29日大日乃光第2179号
魂の依り来たる聖地で御生誕の皇円大菩薩様(一)
正力松太郎賞受賞は信者方の「三信条」実践の賜
昨夜は宗務長から、「正力松太郎賞」の受賞について報告がありました。
この賞は国際協力のスタッフやお寺の者達がもらったのではなく、全国の信者の皆さんが頂かれた賞だと私はしみじみ思います。皆さんが三十七年間ずっと祈願料に添えて「一食布施」や「同胞援助」として浄財をお送り続けて下さったお陰なのです。
正力松太郎賞についてあまりご存知ない方が多いかと思いますが、日本佛教界の中ではかなり権威のある賞で、そう簡単に頂けるものではないという事を最近知りました。祝賀会には佛教界の錚々たる方々が参列されまして、改めて凄い賞だと分かりました。
皆さんの日頃の信心による支え、蓮華院の「反省・感謝・奉仕」の三信条を、身をもって日々の生活の中で実践して頂いた、正にその賜であると思います。
学び舎の地は第二の故郷
私は高野山で修行道場と大学の合わせて五年間、一番血気盛んで多感な時代を過ごしました。その頃の思い出は特別なもので、高野山は私にとっての第二の故郷です。
私は玉名にある九州看護福祉大学で「ボランティア論」の講義を行って十年以上になります。学生達は日本各地から集まっています。その意味では信者の皆さんと同じ様な感じです。
その最初の講義で、私は学生達に必ずこう言います。「玉名があなた達の第二の故郷になるんだよ」と。故郷から遠く離れて四年間過ごす場所は、第二の故郷です。
信者さん達にとっても玉名は心の故郷になっていることでしょう。ですからお寺の者は、大祭の時などで皆さんが参ってみえたら「お帰りなさい」と声をかけるのです。
二十七項目の玉名の日本一
しかしながら皆さんは、玉名の歴史をあまりご存知ないと思います。玉名で生まれ育った人でも、意外に玉名の事を知らないのが現実です。私達にとって玉名の中で一番大事なのは何と言っても皇円大菩薩様であり、蓮華院であるという事は間違いないでしょう。
皇円大菩薩様が玉名でお生まれになって、七百六十年に亘る龍身修行を経て、また玉名に帰ってみえられたというのはなぜなのか?
かつて細川護熙という方が総理大臣になりましたが、その前には熊本県知事を務めておられました。その時に地域の意識を高めようと「日本一づくり運動」を提唱されました。これは大分の平松元知事の「一村一品運動」に並ぶ、非常に意味のある運動だったと思います。
そこで私は地元玉名の日本一、または日本初のものは何か?玉名の誇りは何か?と調べました。そして最終的に二十七項目を数え上げました。その一部をご紹介します。
地名はかけがえのない文化遺産
玉名という地名は日本で、そして世界で唯一の地名です。「そんなの大したことではないでしょう?」と思われるかもしれませんが、例えば東京は、京都に対する東の京という意味で東京であり、中国には北京があり南京があるわけで、東京という地は唯一ではありますが、地名には実は大きな意味はないのです。
ところが皆さんが住んでおられる町や地域の名前は、必ずその地域の歴史や文化、風土や由来を表しているのです。しかし残念なことに、日本人の八割以上は故郷の地名の意味を聞いても答えられません。自分の名前の意味を聞かれて知らないのと一緒です。
それは故郷の名前のいわれなどの意味を、ほとんど教えていないのが原因です。自らのアイデンティティとなる故郷、その場所の大地の空気や歴史、文化を教えていないのです。
ここで信者の皆さんの第二の故郷と言うべき、蓮華院の周りの玉名の歴史を振り返ってみたいと思います。
玉名の地名の由来
玉名という地名は以前は玉杵名(たまきな)と書き、「杵」という漢字が入っていました。
ところが昔の天皇に少し変わった方がおられて、日本全国の地名を二文字にしなさいという勅令を下されました。そこで杵が抜けて玉名になったのです。
玉杵名とは、実は「魂の来たる場所」、魂が入ってくる所という意味なのです。もう一つは「たまき」という霊波を受け取るパラボラアンテナのようなもの。魂を集める立派な「たまき」のある所という二つの意味があります。
まさに今、蓮華院の五重塔や多宝塔がその「たまき」であると言えるかもしれません。
玉名は本来そのような宗教的で深い意味を持っている地名なのです。これを知っただけでも、玉名の人はこんなに凄い場所だったのかと思われるでしょう。
玉名から広まった舟形石棺
玉名は、「舟形石棺」発祥の地でもあります。それこそ五~七世紀、もっと古くは三世紀ぐらい、今から千五百~千八百年程前に瀬戸内海沿岸に様々な豪族の古墳やお墓が出来ました。
玉名にも岩山に横穴を掘ったお墓があり、その中に地域の王様や豪族の棺が納められました。その地域のリーダーのご遺体を安置する棺を石で造ったのです。舟形石棺とは、石をくり抜いたボート状の構造を二つ重ねたものです。それは瀬戸内海沿岸と、この玉名地域と菊地川流域に散在しています。
かつてこの石棺の材質が調べられました。その調査によれば、日本各地に散らばっている舟形石棺の材質の九割程が玉名の石貫地方の石であることが分かったのです。残りの僅かの石は大分の国東半島の石材でした。古墳時代から大和朝廷が出来る頃の豪族達の石棺のほとんどが、何と玉名の石で造られていたのです。
これはどういう事でしょう。この結論はまだ出ていませんが、ひょっとしたら、玉名が魂の来たる所という意味もあるくらいですから、ここが日本の発祥の地かもしれないという説は必ずしも否定できないのです。
二回も認定された日本最古の文字
また玉名では、日本最古の文字が二回認定されました。一回目は、明治になって船山古墳の中から直刀が発見され、鉄の刀の背の部分に銀象嵌で七十五文字が彫ってありました。
それが日本で最古の文字で、直刀は現在上野の東京国立博物館に国宝「銀象嵌銘大刀」として保管されています。その他にも金の耳飾りや馬具一式など様々な副葬品が一緒に出土しました。
船山古墳はどこの人達の墓所かと言えば玉名地域の王族達のお墓なのです。そこで日本で最も古い文字が刻まれた刀が出てきたのです。その後、別の場所で古い文字が出土し、これより少し古い事がわかったので、日本最古の文字ではなくなりました。
ところがそれよりさらに古い文字がもう一度玉名から出土しました。それは新幹線の新玉名駅の近くで発掘された木製の鎧に書かれていました。日本で最も古い文字が、玉名から二回も出土しているのです。
古代の製鉄技術が支えた装飾古墳群
最初のは刀剣で、製鉄の技術がこの玉名の地にあった事が分かります。古代の製鉄技術は、日本各地にいくつかありますが、玉名にも製鉄技術があった。そして鉄によって石を掘る技術があったので、舟形石棺や装飾古墳が造られたのです。
新玉名駅を降りて北側の少し左手(西)を見ると、小高い山があります。そこに六世紀頃の大坊古墳や石貫ナギノ横穴群、石貫穴観音横穴の三つの国指定史跡があります。大坊古墳は年に一度、後の二つは現在でも気軽に入って見学することが出来ます。
この玉名周辺が、日本で最大の装飾古墳の集積地なのです。つまり一種独特の文化圏を持っていたと言えます。
宮中儀礼に欠かせなかった魚とは?
日本では祝いの時に、鯛を〝めでたい〟と言って出します。それ以前にめでたいと言われていた魚は、この玉名から毎年宮中の新年会に送り続けていたものでした。
〝ニベもなく断る〟と言いますが、このニベとは何でしょう?〝ニベもない〟という言葉は普通、ひどく無愛想な意味です。ニベとは、実は鯛より前にめでたいと言われていた魚の名前です。
これは第十二代の景行天皇が有明海を渡り玉名に着かれた時、舟の周りに沢山の魚がいて、天皇が「これは何という魚か?」と尋ねられ、まだ名前がなかったので「ニベと名付けよ」と仰せになりました。
〝にべさにいる〟は古い言葉で〝沢山いる〟という意味です。そして腹が赤いので「腹赤のニベ」になったそうです。今でも玉名郡長洲町に「腹赤」という地名が残っています。
かつて新年の節会(宮中の新年会)では三つのものが献上されました。一つ目は暦(一年のスケジュール)で、天子である天皇が暦を発布される。二つ目は富士山の裾野の氷を「厚さ何尺何寸」と言って献上します。それによって天候を占うわけです。そして三つ目が「腹赤のニベ献上。目の下何尺何寸」と言ってお供えするのです。
それはまさに今年の作物の作柄はどうかと占うのです。それが終わると新年会が始まります。宮中ではこの三つしかお供えしないのです。ですから「ニベもない」という事は、もうどうしようもないという、国の大切な儀式も遂行出来ないという意味なのです。
そのニベを塩漬けにし、わざわざ玉名から舟に載せて新年に間に合うように送り出していたのです。有明海を出て東シナ海を回って玄界灘を通り、瀬戸内海に入って行く。それをずっと続けていましたが、応仁の乱の時に一時的に途絶えたと伝えられています。(続く)
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