2017年10月30日大日乃光第2191号
八百五十年大遠忌を前に中興の歩みと夫婦愛を振り返る
いよいよ奥之院大祭が目前に迫ってまいりました。今寺内では様々な準備を進めているところです。
そして来年は皇円大菩薩様の御入定八百五十年大遠忌という、記念すべき年を迎えます。
ここで蓮華院のこれまでの歴史を少し振り返ってみたいと思います。
昭和四十三年の四月十三日に御入定八百年遠忌法要がありましたが、当時を憶えている方は本当に少なくなりました。沢山の方が玉名温泉に宿泊されて、温泉から本院までの約二キロ、人びとがずっと、それこそ数珠つなぎに歩いていたという話を地元の人から聞いたものです。
またその年に、開山上人様は奥之院の建立を発願されました。奥之院が実際に落慶したのは昭和五十三年ですから、新たに土地を求めて造成し、伽藍を建造し終わるのに十年の歳月を費やしたわけです。ですから八百年大遠忌から奥之院は始まりました。
私の代にはさらに、八百五十年大遠忌までに、かつての蓮華院の姿を再興するという使命を皇円大菩薩様から授かりました。
全ての発端となった昭和四年の運命の「御霊告」
昭和四年十二月十日に、開山上人様は皇円大菩薩様と「御霊告」という形で運命的に巡り会われました。その時は櫻ヶ池がどこにあるのかも皇円という名前も聞いたことが無く、何か不思議な霊波に、凄まじい勢いで両肩を掴まれたような感じだったそうです。
「我は今より七百六十年前、遠州櫻ヶ池に菩薩行のため龍身入定せし皇円なり。今心願成就せるを以て、この功徳を汝に授く。今より蓮華院を再興し、衆生済度に当たれ!」
これは言葉ではなく、魂から魂に直接響き、しかも嬉しくて踊り出したくなるような、歓喜の中で感動に身を任せているような、そういう瞬間だったそうです。しかもそれは一瞬の出来事ではなく、重低音のようにずっと響き続けました。
開山上人様は佛様に見込まれた人です。佛様に使命を与えられたからには、その通りに邁進しようと発願されました。
佛様に巡り会い、当時の家屋敷を全部処分して新たにお寺を造ると奥さんに伝えました。ところが女性は非常に現実的です。しばらく間を置いて、年始の挨拶回りを勧められました。開山上人様も納得しかけたその刹那、重低音のように響いていた波動がぴたっと途切れたそうです。
これはいかん!佛様と聖なる約束を交わしながら、女房の常識に従うなどもっての他だ!申し訳ない事でした!!と水を被って真剣に祈り始めると、あの波動が戻ってきたそうです。こうして最初の御霊告から四ヵ月後の翌年の三月には仮御堂を造り、蓮華院の中興への道が始まったのです。
その頃「この地に来る前に二回会う人が居る。その人にお世話になりなさい」とお告げがあったそうです。何とその人が後の私の母の父(祖父)だったのです。かつてはお寺の北側に家がありましたが、その頃当主だった曾祖父が村長さんでした。縁もゆかりもない中で色んなお世話をしてくれた方です。
昔の事ですから、お参りの最中に酔っぱらって何日も通ってくる人が何人かいました。このままでは川原さんは苦労する、これはいかんと、母方の祖父は皆に嫌われるのを覚悟でピシッと締めて納めて頂いたそうです。
全国から苦難の人々を受け入れた山籠修行の時代
私自身のお寺に関する記憶は小学校一年の時に、担任の先生が一人一人立たせて自己紹介させ質問された時に始まります。「川原一秀さん!」「はい!」「家族は何人ですか?」「三十三人です!!」
祖父母、父母姉弟に私も入れて家族は七人。残りの二十六人は様々な苦難を克服するために、お寺に住み込みで修行をしていた人達でした。私はその人達を家族同然に思っていました。関西弁や名古屋弁などが飛び交う、日本各地から来られた人達と一緒に生活していたわけです。
戦前はお寺で暮らす人に結核の人が多かったそうです。治療法の発見前の事です。そんな中で育った伯父は結核で片肺がありませんでした。また父は若い頃、何回か喀血した事もあったそうです。その頃は、それこそお寺に死にに来る人も沢山おられました。実際何人かは助からずに亡くなったそうですが、多くの人は全快して帰って行かれました。
その中の代表的なお方が吉永正法先生で、開山上人様の一番弟子に当たります。この方も、「お寺に行ってこい」と言われて、「俺は死ぬのか」と思ったそうです。お寺の生活はかなり厳しく、その人のタイプに合わせた軽作業をするのが伝統でした。
またお寺での食事はずっと精進料理でした。お寺だから精進にしたのもありますが、実は肉や魚が買えなかったそうです。それ程厳しい生活だったんです。
その後、戦後はノイローゼで精神的に不安定な方が増え、時に失踪事件もありました。その度に皆で探し、警察の厄介になった方が何人もおられました。
もっとひどくなると、台所から包丁が持ち出されて、当時の御本尊様の佛像の顔が傷つけられた事もありました。その頃の寺内はそんな有様でした。しかしお寺では人権問題になりますから、隔離や拘束などはできません。
そこで昭和三十二年に精神病院を造り、治療に専念させる事になりました。宗教法人蓮華院が、医療法人信愛会玉名病院を造ったのです。これは戦後、お寺が病院を造った中でもおそらくかなり早い例になると思います。こうして、寺内で生活しながら苦難に立ち向かう山籠制度(お籠り)はなくなりました。
全国に御霊力を拡大した時代
話は少し遡って終戦直後の事です。先の大戦で三百万人もの人々が亡くなりました。兵隊さんも二百万人亡くなりました。敵味方を超えて、その人達のために供養のための寺を建てようとして、すでに土地は買ってありました。ところが実際にはなかなか建築費が集まらない。日本全体にまだ余裕がなかったからでしょう。
そこで先の母方の祖父が開山上人様に、「あなたはその凄い法力を全国に広めたらどうですか」と言われたそうです。それまでは九州内で募金をしていました。いわゆる常識的な善意を募る募金活動です。そうではなくて、あなたの法力で全国に信者を増やし、そのお力でお寺を立派にされてはどうか?という提案です。
その提案を実行する中で、信者さんが全国に広まったのが、戦後から昭和四十三年の八百年大遠忌までの蓮華院の歴史です。 奈良の真言律宗総本山西大寺は、当寺のこれまでの活動を高く評価して、蓮華院の寺格を別格本山にして頂きました。
それから五十年の歩みは皆さんもご存知の通りです。信者の皆さんの悩み・苦しみの数だけ祈願があります。私は毎朝御祈祷をして、毎日様々な〝お尋ね〟をする。この様な祈願・祈祷が先々代から脈々と続いているわけです。しかし悩みの質は随分変わってきたと思います。
今、最も懸念する課題とは?
その中で、私はやはり親子の繋がり、親と先祖の繋がり、その先の命の繋がりという、人間を超えた全ての生き物における命の連鎖について深く考え続けています。
この人間における親・子・孫の付き合いが、今大幅に変わりつつあります。中でも非常に危機感を抱くのが、「墓じまい」という言葉です。身近に墓を造らない、もう墓はなくていい。後の子や孫達に負担をかけたくないと言う。この「負担をかけたくない」という言い方をよく耳にします。
しかし人は死ねば、必ず子や孫に負担をかけるのです。それを負担と思うか、当然の務めと思うかの違いです。それは私達が子や孫達にどう接してきたのか、私達が父母や祖父母、さらには先祖にどう接してきたのかに掛かってくるのです。
それを最近の知識人と称する人達は、墓は造らないとか、死んだら遺骨は海に撒いて子や孫達に迷惑をかけないようにしよう、などとテレビなどで発言しています。果たしてそれでいいのでしょうか?
子供達が迷惑と思うか思わないかは子供達自身の判断です。迷惑をかけないようにしようという判断自体が、実は親孝行のチャンスを奪っている事を忘れてはなりません。そういう事に気付いていない人達の意見が今、社会でけっこう受け入れられつつあるようです。
夫婦・家族寄り添ってのお参りを
夫婦は仲良くするのが家庭生活、子どもの成長、社会との接点など、色んな意味で人間の原点であり、最も大事な出発点ではないかと思います。もともと他人同士が何の因果か巡り会い、四十年も五十年も連れ添う。
現代人は我慢する力がなくなってきています。また我慢しすぎると心が壊れるという面もあります。それでもやはり努力して、なるべく相手の長所を見て認め合いながら幸せに暮らしている方もおられます。この難しさを乗り越えれば、他の困難はなんとでもなるというのは言いすぎでしょうか。
そういった意味では奥さんとご主人がお互いに認め合い、拝みあうという事。これが最も大事な、すべての人間の営みの原点ではないかと、最近しみじみと思っております。
どうか皆さんも、今の幸せにしっかり感謝して、お互いに助け合ったり励まし合ったりして下さい。そういう姿を子や孫達に見せていくことも、人生後半の役割と心得て下さい。
来たる奥之院大祭、更には来年の八百五十年の大遠忌大祭にはなるべく夫婦一緒に、さらにはお子さんやお孫さん達と一緒にお参りして下さい。心からお待ち致しております。合掌
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