2019年06月08日大日乃光第2242号
衆生済度の御心が凝結する皇円大菩薩様八五一年六月大祭
貫主堂裏の朴の木が今実をつけています。植物は確実に成長し、次の世代への準備をしています。そして間もなく待ちに待った六月大祭です。皆さんも大祭に向けて脚腰を鍛えたりして準備をして頂きたいと思います。
佛教由来ではなかった「護摩」
今日は護摩祈祷の「護摩」の意味を、少しお話ししてみたいと思います。
護摩の「護」は護るという字です。「摩」は麻の下に手を書きます。摩の字に意味はありません。護は何となく護って頂いているという感じを受けるかもしれませんが、これも実は当て字なのです。
護摩はインドから密教と共に日本に入って来ましたが、元々インドでは「ホーマー」と言っていたそうです。それが漢字で護摩となりました。『般若心経』の「般若」、「波羅蜜多」もパンニャーとかプラジュニャー、パーラミター、ハラミッタの当て字です。このように佛教の言葉には漢字を当てた音訳の言葉が沢山あります。護摩もその一つであるという風に覚えて下さい。
ホーマーとはそもそも何だったのかというと、これは佛教のものではなかったのです。佛教以前からあった古代インドの宗教、バラモン教では火を通じて神々にお供え物をするという儀式があったのです。ですからともすると、実は佛教がバラモン教化、もしくはヒンドゥー教化したものが密教であるという言い方をする人もおられます。
日本人の心情に寄り添った佛教
これは例えて言えばこういう事です。日本では自然を大切にし、そしてご先祖様を大事にしてきました。日本人がご先祖様を大事にしてきた事の一番の証拠が、天皇陛下と皇室の御存在です。皇統は今日まで百二十六代続いています。
特に最近は、これがいかに大切な事であり、有難い事であるかという報道が沢山増えてきましたが、このような先祖を大事にする考え方は実は佛教本来のものではないのです。もともと日本人がそういう感性を持っていた。そして日本に入ってきた佛教が日本人の感性に合わせて、人々に「なるほど」と納得して頂けるように少しずつ形を変えていった。
もう一つ、自然を大切にするというのもインド・中国由来のものではなく、日本人が古代から持っていた感性なのです。
では何故、そういう風に佛教は姿を変えていったのか?それは日本人が佛教を受け入れやすい様に私達に合わせて形を変えていくという、ここが佛教の非常に巧みなというか、有難い所なのです。
お寺での布教の手立て「方便」が様々な芸能を開花させて来た
この護摩も、最初はインドの王様や貴族が様々な願い事を叶えて頂くために、炎に様々なお供え物をして天の神々に届けるという儀式だったのです。
お釈迦様が亡くなられてからも佛教はどんどん進化して行きましたけれども、実際のインド人の生活や生き方に比べてあまりにも理屈っぽく、説明が非常に沢山増えてきて、一般の人が佛教に中々馴染みきれなくなって来たのです。
そこでより広く多くの人々を佛教に引き入れる手立てとして、一般の人々が慣れ親しんでいた宗教的な作法などを取り入れる事によって、より佛教の信仰に引き入れて行こうとしました。
この「手立て」の事を佛教用語では「方便」と言います。この方便という言葉が佛教ではよく使われます。「嘘も方便」という言葉もありますが、方便というのは嘘かと言えばそうではないのです。少し方向を変えて、違う形を通じて引き入れて行くという意味です。
例えばこの法座がありますが、ここから色んなお話をします。お坊さんが話す場合は「お説教」ですけれどもそれだけではなく、佛教にもっと馴染みを持って頂こう、お寺に沢山の人に来て頂こうと考えて講談をしたり、また落語の様な事をして人々に喜びや楽しみを与えます。そしてその中に佛教の教えをさりげなく込める。
お坊さんの話は聞きたくないけれど、お寺でやる演劇は面白いという事で人が集まって来て、ついでに佛様にも手を合わせる。こういうのが手立て、「方便」です。そういった形で、人々が佛教に馴染みやすい様にしたのが方便なのです。
それでは何のために「方便」をするのかというと、人々を佛教に引き入れて佛教の教えをより理解して頂くためにするのです。
佛様の慈悲の御心を込めた密教の護摩修法
インドにおける最初の護摩は、様々な願い事を叶えて頂くための祈りの作法でした。それと表面的には同じ様な形で行なっていても、佛教ではその基本精神をがらっと切り替えています。
我々真言宗の僧侶が護摩を焚く時にどのようにしているかというと、インドのバラモン教で行なわれていた護摩と根本的に違うのは、そこに様々な瞑想が入ってくる事です。
先ず道場を清め、そして自分自身の中に佛様に入って頂き、そして外におられる佛様と合体をします。「佛様の慈悲の心というのは、さながら燃え盛る炎の様なものである。護摩を焚く炉というのは佛様の化身なのだ。護摩の口は佛様の口なのだ。そこで燃えている火は行者の中にある智慧の炎なのだ。佛様と炉と行者の私自身が三位一体となる」と瞑想するのです。
これをせずに護摩を焚くだけなら、単なる焚火に過ぎません。ホーマーではあっても佛教の作法にはならないわけです。そこがとても大事な所なのです。
ですから皆さん達は炎を見ながら自分自身の様々な悩みや苦しみ、それから煩悩、迷い、そういったものを佛様の智慧の火によって焼き尽くして頂く。これが一番肝心な事なのです。願い事を叶えるだけの祈りであったら、これは佛教ではないのです。
深い願い事が深い祈りへと導く
六月大祭では夜に大護摩祈祷を修します。十一月の奥之院大祭では野外で護摩を焚きます。その時に願い事を叶えるためだけに集中していれば、これは佛教ではないという事なのです。しかし心を清め浄化する、そして煩悩を焼き尽くすという内容だけでは、人間というのは中々有り難いと思わないのです。
やはり様々な具体的な苦しみがあり悩みがあります。そういった怖れの心、苦しみ、人を羨む心、そういうものを全てひっくるめて「煩悩」と言います。一心に心を込めて火に向かって拝んでいると、そういった煩悩がスーッと浄化されて行くのが分かります。そういう効果、そういう意味でこの護摩というものがあるのです。
もう日本に入って千二百年以上、連綿と修し続けてきているわけです。皆さん方は毎月三日、十三日、二十三日と熱心にお参りされています。どうですか?普通に自宅でお参りされるのと、護摩を焚いている時にお寺でお参りするのとではやはり違いますね?自分の中に、何かエネルギーが沸いてくるというように感じられているはずです。
そういう功徳、そういう手立て、「方便」として様々な願い事を一心に叶えて頂くという祈り。その願い事に集中する事。実はこの集中という事がとても大事なのです。
漫然と火が燃えているのを見ても何となく心は落ち着きますが、色んな作法の中で一心に拝んでいる姿を見ながら、皆さん達も燃え盛る炎を拝むことによって、様々な悩みや苦しみがスーッと浄化されていく。そういう事を実感されているだろうと思います。
十一月大祭で行われる、野外で大きな炉を構えて行じる作法、「柴燈大護摩」は日本独特な護摩です。これは日本に入ってきて、日本の大自然の中で山に登り修行をし、自然に触れる中で日本人が生み出した祈りの作法なのです。
智慧に基づく慈悲の御心で人々を救う手立てが「方便」
この様に、佛教には様々な手立て、入口が沢山用意されている。最終的に登りついた所には、やはり皆さん一人一人の心の大きな安心があり、そして満足感があり、お参りが終わってスッキリするという、そこに大きな佛様のお恵みが流れ込んでくるというそういう事になるわけです。
ですから手立てというのはとても大事で、それはなぜ出て来たかというと、実は佛様の深くて強い慈悲のお心からなのです。少しでも多くの人とご縁を結び、一人でも多くの人に佛教の中に入って頂き救われるようにという、そういう大きな慈悲の心があって初めて様々な手立て、方便が生み出されたのです。
ですから慈悲のない方便だったら単なる陰謀です。陰謀と方便はどう違うか?根本的に佛様の慈悲がなく、例えば悪い方に導くためのものは陰謀に過ぎません。
それとは全く逆に、佛様の智慧に裏付けられた慈悲の心で、少しでも人々に安らぎや救いを得て頂くためにはどうするか?どうしたら人々の様々な悩みや苦しみを取り除けるか?正に皇円大菩薩様もそういう事を日々思案しておられて、皆さん達には見えませんけれども一人一人の心の中に宿って頂いて、その中で様々に行動されて皆さん達を救って頂いておられます。
六月大祭へのお参りを勧めてご縁繋ぎのお手伝いをしよう
この皇円大菩薩様の「慈悲の心」というのが一番高まるのが六月大祭であります。皆さん達には申すまでもなく、ここにおられる方々はほぼ全員、六月大祭にお参りになると思いますけれども、どうか家族や親戚、知り合いの人達を誘って頂いて、十二日の功徳行、または夕方からの「龍火くだり」からお参りにご参加下さい。
体力が落ちて龍火くだりにはどうしても参加が難しいという方は、こちらの方(本院)に来られてください。体験談発表など聞かれると、ご自身の信仰の最初の頃にはこんな時期もあったと思い出されたり、全く新しい方はこんな有り難い佛様がおられたのか!などと感じて頂けるに違いありません。
どうぞ一人でも多くの方々へのご縁繋ぎをお願い致します。合掌
6月12日13日
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