2020年01月21日大日乃光第2262号
混迷の世界情勢に負けないように 願いを立てて日々努力精進しよう
新年明けましておめでとうございます。
令和二年に入り、今回初めて本院にお参りされた方がほとんどだと思います。一月三日に奥之院にお参りされた方も、今日が本院への初参りになると思います。
新年早々 風雲急を告げる世界情勢
さて今年はたいへんな幕開けとなりました。
一月三日にアメリカがイラクへの特殊攻撃を行い、イランの司令官が殺されました。アメリカは在イラン大使館などへのデモに対する報復などを原因に挙げていますが、それにしては余りにも大きなイランからの反発が起きています。かつての湾岸戦争、そしてイラク戦争と…そういった方向へと向かわない事を切に切に願うばかりであります。
せっかく新しい年を迎えて希望的な話、前向きな話をしようと思っておりましたが、先の一件で世界中に大きな不安の雲が流れて参りました。誠に残念な事であります。
また長期的な事としてはアメリカと中国の経済戦争、言ってみれば「価値観の戦争」。自由主義経済と共産党による一党独裁の政治、この二つの大きな勢力の矛盾が表面化していると言っても過言ではありません。この問題はそう簡単に片付くとは思われません。
主人公への掘り下げが浅く物足りなかった大河ドラマ
そう言った中で日本は今年、念願でありました二回目の東京オリンピック・パラリンピックが開催されます。
オリンピックと言えば、昨年大河ドラマで『いだてん~オリムピック噺~』として一年間放送がありましたので、私も視聴率が低いと聞いていましたので、なおさらしっかり観ようと思って最後まで、そして総集編まで観ました。
その中で一つ、非常に気になった事は、金栗四三さんがどんな思想を持っていたのか、どういう行動をしたのかというのがあまり描かれていなくて、どちらかと言えばおっちょこちょいの田舎モンで、直情径行のただ純粋なだけ、走る馬鹿のような表現しかなかったのは非常に残念でありました。
歴史に脈々と刻まれる金栗四三翁の偉大な足跡
年明け早々に行われた箱根駅伝そのものを始めた人が、この金栗四三さんなのです。その証拠に優秀な選手に対して「金栗四三杯」というのが贈られています。この事に至った特別大きな、長い歴史観を持って、大きな目標を持って金栗四三翁が様々な活動を創めておられます。これはまさにマラソン馬鹿がマラソンを広めるために、いかにすべきかという事を徹頭徹尾考え抜かれ、そして自ら日本各地を、膨大な距離を走り続けられた結果から生まれた一つの具体的な、マラソン普及の方法であったと思われます。
それが今年で九十六回の開催を数え、開催百周年を迎えて脈々と続いているという事がいかにすごい事なのかという事を感じました。
こちら玉名でも、昭和二十四年から過去七十回続けられて来た「金栗四三杯ハーフマラソン大会」(三月八日開催)と共に、今年から「玉名いだてんマラソン」(二月二十三日)としてフルマラソン大会が開催されます。
年頭に当り一年の計を立て、願いを立てて毅然と生活しよう
先日、たまたま観ていたテレビの番組で「正月三ヶ日に、一年の目標を立てましたか?」というアンケートがありまして、何とその結果は三十一パーセント、三人に一人も一年の目標、いわゆる「一年の計」を立てていなかった事を知って愕然としました。
目標を持って進める一年と、目標を持たずに漫然と歩み出す一年。この違いは一人の人間の生き方として、とても大きく関わってきます。
この目標を立てるという事を信仰的に見てみますと、これはまさに「願いを立てる」という事。一年の計を立てる、目標を立てるという事は願いを立てるという事なのであります。
三百万回の御宝号念誦の功徳
具体的に私は昨年の七月過ぎから体調を壊し、入院をして様々な治療を受けてきましたが、この治療を受ける中で私は一つの目標を立てました。それは来年の一月七日、つまり今年の松の内までに三百万回、皇円大菩薩様の御宝号を唱えようと決めました。そしてまさに一月七日、三百万回目を唱え終わる事が出来ました。
目に見えてどのような変化があったのかという事は、まだ充分には実感しておりませんが、確実に私の体内に皇円大菩薩様の御威光が入り込み、そして私を内部から変えていっているという事を少しずつ実感しているところであります。
このような事は滅多にない事で、これも佛様の思し召しによる一つの試練として大病を頂き、それを現代医療と共に日々の生活の中で佛様の御加護を頂きながら、何としてもこの苦難を克服せんという思いから始めた事でありました。
始めた当初はまだ下血が止まらずに、ひょっとしたらこのまま命がなくなるかもしれないと、お医者さんから言われたのですが、一つ一つ困難を克服しながら、快方に今向かっている所です。まだまだ万全ではありませんが、私の中で光が見え始めたのは事実であります。
具体的な願いに向けた強い信念が人々を輝かせる
皆さんにとっても、今年一年をどう乗り切るか。先に世界情勢の不安定、日本のオリンピックの話をしましたけれども、世の中がどうあろうと自分はこれをやり抜くんだという強い信念と思いを持って頂く事がいかに大切な事なのかという事を、私は一つの具体的な自分の事として体験し、それに向かって進んで行く事の大切さをしみじみと実感している所であります。
一人ひとりが良き願いによって輝く事が、地球の、人類の平和に繋がる。一人ひとりが良き願いを持ち続ける事が、地域の発展、そしてその前に家庭内の融和、そして家族の健康や希望や、そういったものが着実に叶って行く根本ではないかと考えています。
この願いを立てる、つまり願いを自分の中に打ち込む、願いをしっかりと日々確認する、その事が家庭を明るくし、円満にし、そして地域に広がって行き、ひいては日本人全員がこの事を強く望む事がいかに大切かという事を感じます。
神佛に対する畏敬の念もなくただ消極的な最近の言葉遣い
さて、私はもう一つ、近年の言葉で非常に気になる事があります。多くの人が、かつては使っていなかった言葉です。
と言うか、これは信仰的には非常に良い言葉と私は思っておりますが、「何々させて頂く」。これは大いなる意志、または人智を超えた大きな働き、ある意味では神や佛、またはサムシング・グレートと言っていいような何か人智を超えた大きな働き、そういったものに対する謙虚な思いというのが前提にあっての言葉であります。
しかし最近の言葉では「何々する」「何々した」という事に対して、自分が主体的に為す事まで、行動する事まで全て「何々させて頂く」と言っているわけです。
この時に、先に言いました大いなるものへの畏敬の念、また感謝の思い、そういったものが根底にあって出てきている言葉ではありません。単なる習慣的に言っているというように感じるのです。もっと言えば、謙虚なふりをしているだけではないでしょうか?
「何々させて頂く」では強い意志や行動は生まれない
このような気持ちが必ずしも全面的に悪いとは思いませんが、しかし何か願いを持ち、そしてそれを実行しようとする時に、全てが「させて頂く」というこの慣用句になってしまった近年の日本語、何か他人事のように、何か自分から湧き出て行う信念を持った行動というものから遠ざかっているように感じるのであります。
特に指導者、その中でも政治家の人達までも「何々させて頂きます」というこの言い方は、国民に媚びているだけではないか?本当に使命感を持って「これをやり抜くのだ!」という強い信念が感じられないのであります。
そういう事を私達自身が見逃し、そういう指導者達に指導されている。そういう人達の提案や計画を我々は聞いて、そこに真剣な「眦(まなじり)を決した!」と言うような強い思い、願いというのを感じないのです。
どうか私達は、せめて自分の回りだけでも「何々させて頂く」という軽い言葉から脱して、他律的な言葉ではなく、自分自身が何かを成し遂げるのだ!何かをしなければいけない!何かをする事が神佛の願い、神佛の思いに適うのだ!と、そのくらいの思いを時には持つ必要があるのではないでしょうか。
そういう強い思いを持った時に、家庭内の躾、子供の行動、そういった事に対して「これは駄目なんだ!」と強く諭し導く事にも繋がって行きます。強い意志を願いの中に打ち込み日々努力精進致しましょう
どうか、単なる習慣的な、慣用句のように「させて頂く」、「何々させて頂く」という思考系統、経路、言語習慣から脱して、この世界的にも危険な、そして困難な時代に向かう時代に当たって、私達はそういう思いをしっかりと持たなくてはなりません。私達一人ひとりが様々な小さな願いでもいいですが、願いを立てましょう。
また大きな願いは、そのためには断固としてやり抜くのだという強い意志、そして強い思い、そういったものをこの新年に当たって新たに皆様に提案したいと思います。
どうかそれぞれが力強く、そして自分の意志をはっきりと願いの中に打ち込んで日々の生活に邁進して下さるよう切に願います。「願わせて頂く」ではないですよ!(笑)
本年もどうぞよろしくお願い致します。合掌(令和二年一月七日記)
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