2020年04月28日大日乃光第2272号
苦難の時こそ、ほほえみと思いやりを
人生は苦なり
毎日お寺に居て、全国から様々な悩みを抱えて特別指導(個別面接相談)にお越しになる信者の皆さんのご相談を受けてしみじみ思うことは、「人の数だけ悩みや苦しみがあるのだ」ということです。
佛教の開祖である釈尊(お釈迦様)の、「人生は苦なり」という認識から佛教が始まっているということを、今さらながら思い起こします。病気の苦しみ。人間関係の苦しみ。思い通りにならない苦しみ。生きて行くことそのものの苦しみ。いつか死ななければならない事への苦悩。生きていれば、このように苦しみの種は尽きません。
釈尊がお悟りを開かれた時の最初のご説法は、この人間の苦しみを明らかにして、そこからいかにすれば脱することができるか、ということでした。そこで釈尊は、四つの諦(真理を明らかにすること)つまり「四諦」と、「八正道」(八つの正しい道)をお説きになりました。
四諦八正道
四諦の第一は、人生は本来苦しいものであるとする「苦諦」。第二は、その苦しみには原因があるとする「集諦」。第三は、その苦しみは滅しなければならないとする「滅諦」。第四は、そのための道(方法)を説く「道諦」と続きます。これが四諦です。
そして苦しみを滅するための八つの正しい道が八正道です。この八正道の中で最も大切なことは、その第一に掲げられている「正見」です。色眼鏡をかけず、真実をありのままに見つめるということです。
苦しみに真剣に向き合う
ですから人生の苦しみに向き合うことが全くないと言われるような人にとっては、佛教は無縁の宗教です。今、なぜ佛教が多くの人々から遠い存在になってしまったのでしょうか?それは、人生を送る中で芽生える様々な苦しみに、正しく向き合わない人が増えているからではないかと思います。苦しみに正しく向き合うことなしに、ただ逃れるために、何か別の方向に関心をそらしたり、何らかの気休めを見い出したりしているからなのかもしれません。
いま一つ大きな問題は、佛教を広めるべき立場にある私達僧侶自身が、人々の苦しみにしっかりと向き合って来なかったからなのかもしれません。その証拠に近年多発する自然災害などの問題が起きても、マスコミを始め、社会の側から僧侶や佛教界に意見を求めることがほとんどありません。それほど大きな問題ではなくても、身近に居る私達僧侶に個人的な相談をすることさえ減っているのが現状でしょう。
苦しんでいる人の話をそばに居て聴くこと
私が高野山大学を卒業する直前に、卒業論文の指導をして頂いた故田中順照先生に、こんな相談をしたことがありました。
「私は少しばかり真言宗の僧侶の修行をして、佛教学を学んだだけです。
社会に出て、僧侶として人々の人生の苦悩を相談されても、何も答えることができません。私はそんな人にどう接したら良いのでしょうか?」
このように、一僧侶としての生き方を問いかけました。田中先生は高野山大学の教授としては珍しく、真言宗の僧侶ではなく浄土宗のお坊さんでした。その先生がこう言われたのです。
「若い貴方の悩みはもっともです。私も悟りを開いている訳でもないし、信心が決定(定まること)している訳でもありません。そんな私が人を苦悩から救うことなど出来ようはずもありません。しかしそんな私でも、その苦しんでいる人の話をただひたすら聴いてあげることはできます。貴方も人を救おうなどと思わず、苦しむ人のそばに居てあげることはできるのではありませんか」
私はこの言葉にどんなに救われたか分かりません。お陰様でその後、なんとか僧侶として生きて行けると思えるようになれたのです。
この「相手の話をひたすら聴いてあげる」ということは、世間で言うところのカウンセリングと同じことのように思います。多くの人々が、悩みや苦しみを聴いてもらうカウンセリングによって、いくぶん心穏やかになられるようです。
どうかこの人の願いを聴き届けて下さい…と祈る
真言宗の僧侶にとっては、このようなカウンセリングに加えて「祈ること」、つまり「御祈祷」を行じるのが欠かせない使命です。
蓮華院に帰って来てからのことでした。奥之院に大梵鐘「飛龍の鐘」が出来ることになり、この大梵鐘を撞いて行う「打鐘祈祷」(大梵鐘祈願)を受けることを、先々代の是信大僧正様(開山上人様)が御指示されました。
この時私は、「今の私には大僧正様のように祈祷をする自信がありません。打鐘祈祷を申し込まれたらどうしたら良いでしょうか?」と率直にお尋ねしました。すると、
「自分がこの人の願いを叶えてあげようなどと思う必要はない。
『どうかこの人の願いを聴き届けて下さい』と、御本尊皇円大菩薩様に真剣に祈るしかないのだ!真剣に祈り、『後は佛様にお任せする』という心が大切だ!!」と、こう言われたのでした。
人間にはどうすることもできない苦難や悩みに対して「一緒にそばに居て聴いてあげる」ことと、「ひたすら祈る」ことが、私にとっては真言宗の僧侶として、また祈祷者として生きる上での大きな支えとなっているのです。
∞(無限)×一(行者の祈り)×一(信者の祈り)=∞(霊顕)
あとはこの祈る力、祈りの深さをいかに強めるかということになって来ます。ここにまた一つ、大きな支えとなる言葉がありました。それは先代、真如大僧正様のお言葉です。
「無限の御霊力を持っておられる皇円大菩薩様に祈るということは、行者(祈祷者)が一心でさえあれば良い。なぜなら無限掛ける一は無限なのだから」
つまり∞(無限)×一=∞です。
ただし、ここにもう一つ大事な要素が加わります。それは祈願する人、つまり信者の皆さん方の心です。もし、この祈願者の心が御本尊様に向いていなければ、つまりゼロかマイナスならば、∞×一×0=0なのです。
人は真に苦しみから脱したいと願うならば、必ず何らかの行動を起こします。そのための方法を探します。それが「道諦」です。そして様々な試行錯誤の末に、「祈るしかない」ということが人生には幾度か訪れます。そんな時、そばに居て話を聴いてくれる人、一緒に祈ってくれる人が居る人は幸いです。更に幸運なことは、その祈る対象を日頃の信仰生活の中に持っている人です。
苦しみの中からほほえみと思いやりを
現代は、この祈る対象を持たない人が増えています。若くて健康な時には「祈るしかない」ようなことがあまりありません。せいぜいこの時期でしたら合格祈願といったことぐらいでしょうか。
中には生まれながらに体が弱いとか、家庭内に不幸が続いている方が居られるかもしれません。しかし逆説的な言い方ですが、そのような人の方が、却って幸運なのかもしれません。
それは「人生は苦である」という事をすでに知っておられるからです。苦悩の中に居られる人ほど、信仰への入口は近いのです。
そしてその苦しみの中からつかんだ信仰は、その人を強くたくましくせずにはおきません。
苦悩の中からのほほえみや、他の人への思いやりの心というのは、そう簡単に得られるものではありませんが、一旦この心構えをつかみとった人は、更なる信心を深めて行かれることでしょう。
私自身も苦しい時には意図的に、「有難いなー」「うれしいなー」と口に出して言うことにしています。するとその内に、皇円大菩薩様に支えられている自分を発見することができました。
私の尊敬するある方は、大きな悲しみに打ちひしがれておられた時、天啓のようにある言葉が降って来たそうです。それは、「今日はだれを喜ばせようかしら」だったそうです。以来その方は、朝、目が覚めるなり、大きく背伸びするようにしながら、「今日はだれを喜ばせようかしら♪」と口づさむのが日課となったそうです。世界中が苦難の中に居る今こそ、一度試してみて下さい。必ず心の中に明るい変化が現れて来ると確信しています。
一回でも多く御宝号を唱えよう
それに加えて、一回でも多く御宝号を唱えましょう。私は昨年八月に入院して以来、御宝号を毎日一万遍ずつ唱えて来ました。新型コロナウイルス感染症の広がりと共に、毎日一万遍から二万遍唱えるようになり、近頃では毎日四万から五万遍ずつ唱えています。四月十三日で五百五十万遍に達しています。
これはこれからも続けて行きますが、皆さんもぜひ一日に百遍でも千遍でも、皇円大菩薩様の御宝号を唱えて下さい。ご自身の健康、ご家族の健康、さらにコロナウイルス禍の早期終息への願いを込めた祈りとして下さい。
さらに前号でお配りした『般若心経』の写経を実修して、ぜひ蓮華院に納めて下さい。御遠忌法要の添え護摩も受付を開始しています。本年の六月大祭は半日だけとしましたが、その分、皆様も各々ご家庭で御遠忌法要の前行として、写経と御宝号念誦に勤めて下さい。合掌
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