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2020年12月29日大日乃光第2294号
正しい「三密」の実践が、あなたの運勢を更に高める

正しい「三密」の実践が、あなたの運勢を更に高める
 
「三」の付く歳の年頭に当たり、改めて「三密」の意味を正す
 
全国の信者の皆さん。そして何らかのご縁により本誌をお届けしている有縁の皆様。
新年明けましておめでとうございます。
 
本年は令和三年となりました。この「三」という数字は様々な意味で意義深い数字です。
例えば「石の上にも三年」とか、当山にも「反省・感謝・奉仕」の「三信条」があります。そして真言宗の「三密の修行」などは、「三」の代表的な例であります。
 
昨年、コロナ対策としてよく言われた密集・密閉・密接を表す「3密」が、十二月一日に、東京都の小池都知事の言葉として「新語・流行語大賞」の年間大賞に選ばれました。選考委員の一人で言語学者の金田一秀穂さんは、分かりやすさを選考の理由として掲げられました。
 
しかし「三密」という言葉は本来避けるような事柄では全くなく、真言密教の修行や日常生活で目指すべき事柄でありますので、これはあまり好ましい傾向ではありません。
今日は真言密教の「三密」について、改めてしっかりとお伝え致します。
 
人間性への揺るぎない信頼が真言密教の基本的立場 
 
真言密教が成立する以前の佛教、つまり顕教(けんぎょう)では、「三密」ではなく「三業」という言葉を使います。この違いは何かと言えば、顕教では基本的に人間というものは煩悩にまみれているので、その汚れや穢れを洗い落とす事に修行の主眼が置かれています。
 
「三業」とは以下の三つの事です。私達のこの身、つまり体で行う事が「身業」。次に言葉で行う全ての表現や行動が「口業」。そして私達の心で行う全ての事柄が「意(心)業」。以上の三つです。
 
顕教ではこれらの全てが不完全で、煩悩に纏われているので、これらを清めなければならない!という立場から出発します。喩えて言えば、「人間というものはそのままで放っておけば、何をしでかすか分からない不完全なものだ!」という考え方です。言わば「性悪説」に近い人間観と言えるでしょう。
 
それに対して真言密教の立場は、「性善説」に徹した人間観と言って良いかもしれません。
この人間観は、人々の可能性を無条件に信頼し、み佛様の決して揺るがない無条件のお慈悲とお加護が感じられて、私達に安らぎを与えて頂けるものであります。
 
去る十一月三日に、奥之院大祭の法話でも少しお話し致しましたが、今一度年頭に当たって、このみ佛様のお慈悲とも、偉大なる救済のお力とも言える「三密」についてお話し致します。
 
神佛への信頼と、相手への思い遣りが「身密」
 
先ず「身密」とは、私達がこの本堂で皇円大菩薩様に頭を垂れて数珠を取り、一心に手を合わせる事。更に「三礼」の動作を丁寧にする事。その後、両手を合わせる事。御本尊皇円大菩薩様を真剣に見つめる事…などなどの動作の全てが、この「身密」なのであります。
 
また、初詣で神社にお参りされる時、手水舎で両手を濯ぎ口を清める事。神前で頭を垂れる事。柏手を打つ事(実は真言密教の修法にも、この柏手を打つ事と同じ所作があります)などなど、これらすべての動作が「身密」に相当するのです。
 
皆さんが神佛の前で無心に真剣に祈る時、それらの動作の全てが神佛の御心に通じる清らかな行動なのであります。この様な神佛の前での真剣で真摯な行動は、全て神佛に通じる清らかにして純粋で無欲な行動なのであります。
 
さらにもっと日常に引きつけた行動の中にも、まさに「身密」と言える行動が多々あります。
例えば、お客様を我が家にもてなす時などに、「どうぞ、どうぞ」と手の平を上に向けて招き入れる動作をします。
 
別れ際には手を振ってお見送りし、相手が見えなくなるまで手を振ります。更には見えなくなったその後ろ姿にも深々とお辞儀をすることもあります。これら全てが相手を思っての行動ですから、まさに「身密」となっているのであります。
 
周囲や自分自身に良き波動を広げる「口密」
 
次の「口密」は、口でお経や御宝号を真剣に唱える事。これは唱えている本人はもとより、周りの方々にも互いに共鳴、交感して、さらなる大きな波動を広げて行きます。また、その声は自分自身の全細胞の遺伝子を揺さぶります。そして自分を内部から良き方向に導く大いなる力にもなります。
 
お経をお唱えする以外に、日常生活の中で「口密」を見れば、例えば困っている人が居られた時に「何かお手伝いできる事はありませんか?」と声を掛けたり、悲しんでいる人がいたら「どうなさいましたか?」「もし良かったら話して頂けませんか?」などと相手に寄り添った言葉を掛ける事も、立派な「口密」なのであります。
 
真言密教の瞑想法、三密瑜伽の行を支える「意密」
 
そして最後の「意密」は、先の「身密」「口密」の二つに心を込めて実行する時、真の「意密」と成るのであります。
 
密教修行に引き寄せて申しますと、『般若心経』などをお唱えする時、心を無にして、それに加えて例えば皇円大菩薩様の御尊像のお姿が光り輝き、光背の光が四方八方に無限に広がって行く様をありありと心の中に描く事も良いでしょう。
 
また、御本尊様が自分自身に近づいて来て頂き、その中にスッポリと包まれて行き、その中で御本尊様と自分自身が少しずつ大きくなり、更に大きく大きく広がって行き、この宇宙一杯に広がって行く様な瞑想をするのが最高の境地です。その無限の広がりの中で心をたゆたわせ、更には時間さえも超えて深い瞑想に入って行くのも良いでしょう。
 
その時には、もうお経を唱えている事さえも超えて、お経と心身共に一体になった様な境地に入れることもあります。これはなかなか難しい事ですが、繰り返し繰り返しお唱えして行けば、この様な何とも言えない境地に入れることも出来るのであります。
 
その後は徐々に拡大から縮小へともどり、ゆっくりと元の自分の体に戻って、最後に御本尊様が自分から離れられ、元の御尊像に戻って頂きます。
 
この様な瞑想を伴うお参りが、「三密瑜伽の行」と呼ばれる行法なのであります。以上の様な瞑想をする時は、既にお経は小さな声になり、更には口で唱えているという実感もなくなっていくものです。
 
この様な瞑想に到達する事はさほど多くはありません。この様な深い瞑想を支えているのがまさに「意密」なのであります。
 
渾然一体の「三密」の大元は、神佛より頂いた御加護の賜物
 
これら「三密」は、私のこれまでの修行の実感では、「三密」のそれぞれが渾然一体となった感じで、もうそれらを三つに分けることは出来ません。そしてこの大元になる「なにものか」は、まさにみ佛様から頂いたものとしか言いようがありません。
 
つまり「三業」も「三密」も、私達が生まれる以前から神佛に頂いており、私達全てが神佛の「ご分霊」として、この世に何らかの使命を持って生まれて来たに違いありません。新しい歳を迎えるに当たって、私達一人一人が神様佛様から自分だけの使命を与えられてこの世に生を享けている事を、心の奥深くから実感して頂きたいものです。
 
周囲の人々へと広げて行きたい 苦難を乗り越える絶大なるお力
 
それでも人には長い人生の中で、様々な試練や障害が横たわっています。それらの障害やハンディーは、「必ずその人自身の努力で乗り越えられる」と説く人もおられますが、そんな中で、当山には様々な祈願をされる方々がおられます。
 
先の説を当てはめると、辛い時や苦しい時に皇円大菩薩様の絶大なるお慈悲のお力を頂いて、そのお慈悲にお縋りし、それらの苦難から救われる方が多くおられます。その事によって、私達は皇円大菩薩様のお慈悲や絶大なる救済力を身を以て歴然と実感しておられる事でしょう。
 
信者の皆さん方にとって、この様な実感こそ、自らが周りの人や有縁の人々への慈しみの心や奉仕の心を起こして頂く大きな力の基になっているに違いありません。
 
年頭にあたり、深い反省とみ佛様への感謝の心を育み、更には奉仕の心を起こしてください。
更には御本尊皇円大菩薩様の御霊力を実感しておられる方々は、その恩返しとして少しでも多くの周りの人々に、その救われた体験や実感をお伝え頂きたいと、切に願うものであります。
 
本年も御本尊皇円大菩薩様のお恵みの基、ご自身とご家族の健康と平穏を日々お祈り致しております。合掌




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