2021年02月06日大日乃光第2297号
「建国記念の日」に当りこの国の紀元に思いを巡らそう
「建国記念の日」に当りこの国の紀元に思いを巡らそう
二月三日の立春を過ぎ、こちら熊本では日に日に暖かさが増し、過ごしやすくなって来ています。今年の運勢表に記された新たな運勢が始まっていますが、皆さん方はすでに星まつり御祈祷をお願いされて、良くない運勢も福運に転じておられる事と思います。前号でもお伝えしましたが、今年は百二十四年ぶりの三日立春でした。
東京五輪と疫病の都合により移される三つの「国民の祝日」
このように日付については天文現象を元に確定される場合もありますが、昨年からの新型コロナウイルス感染症の世界的な拡大で東京オリンピックとパラリンピックが今年の夏に延期された結果、一年限りの特別措置法によって、祝日が次のように移る予定です。
「海の日」は本来、七月の第三月曜日ですが、東京オリンピック開会式の前日、七月二十二日に移ります。そして「スポーツの日」も本来は十月の第二月曜日ですが、開会式当日の七月二十三日に移ります。最後に「山の日」も本来は八月十一日ですが、オリンピック閉会式の八月八日に移ります。この事は、新型コロナウイルス感染症の今後の状況に左右されるわけです。
現在は国民の祝日である「海の日」は「海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願う」ことを趣旨としています。世界中で「海の日」を国民の祝日としている国は、意外にも日本だけなのだそうです。これは平成七年に祝日制定される前は「海の記念日」として、明治天皇の海上巡幸にちなんで戦前に定められていました。
「スポーツの日」は、令和二年に改称された「体育の日」で、昭和三十九年十月十日の東京オリンピック開会式の日を記念して、昭和四十一年に定められました。
「山の日」は、「山に親しむ機会を得て、山の恩恵に感謝する」ことを趣旨に、平成二十六年に制定された新しい祝日です。しかしこれにははっきりした由来が無いのだそうです。漢数字の「八」の文字が山の形に見えることや、「11」が木立ちのイメージに見えるからとも言われているそうです。
明治に定められた日本国の紀元
さて、今回の『大日乃光』が発行される二月十一日は「建国記念の日」という国民の祝日です。常々貫主大僧正様が御法話で繰り返し述べて来られた事ですが、ここで改めておさらいしてみたいと思います。
二月十一日の「建国記念の日」は、戦前は「紀元節」と呼ばれて、初代天皇の神武天皇の即位日を日本の国のはじまりと定め、賢所、皇霊殿、神殿の宮中三殿では天皇陛下親祭の祭礼と祝宴が催されました。各天皇陵では遙拝式、全国の小学校では万歳奉祝、各地の神社では紀元節祭と、ともかく国を挙げての全国民のお祭りが催される祝日でありました。
実は、その紀元節が二月十一日に定められる時にも、少し曲折がありました。紀元節の制定は明治五年の事でしたが、ちょうど旧暦(天保暦=太陰太陽暦)の十二月二日の翌日を、明治六年一月一日とする新暦(グレゴリオ暦=太陽暦)が施行される改暦とも重なっていました。
そして当初は、神武天皇の即位日が旧暦の一月一日(旧正月)と考えられていた事から、単純に新暦に置き換えて、新暦の一月二十九日が紀元節と定められ、最初は「神武天皇即位日」として諸々の祭典が斎行されました。
新暦の施行に伴って、明治政府は様々な行事を新暦に従って行うように進めていましたが、紀元節が一月二十九日のままでは、単に旧正月を言い換えただけという誤解が国民の間に生じるのではないかと考えられ、また先代の孝明天皇が崩御された日付とも前後するため、不都合と判断されました。
国家発展の礎にもなった「皇紀」
そこで当時の文部省天文局が算出し、暦学者の塚本明毅が審査して、あらためて二月十一日が紀元節と決定されました。
これは『日本書紀』の、「辛酉(かのととり)の年の春正月、庚辰(かのえたつ)の朔(ついたち)。天皇(すめらみこと)、橿原宮(かしはらのみや)に於いて即帝位(あまつひつぎしろしめ)す。是歳を天皇元年(すめらみことのはじめ)と為す」という記述が根拠になっています。
この記述を元に「辛酉」年を計算すると、西暦紀元前六百六十年に当り、即位月が「春正月」である事から「立春」に近い即位日の干支、「庚辰」が何日であるかで決まります。そこで紀元前六百六十年の「立春」に最も近い「庚辰」の日を新暦を使って計算したら、二月十一日という日付が特定されたのです。
日本ではそれまでずっと元号や、六十干支による循環紀年法のみに頼って来ましたから、明治時代に初めて西暦紀元(キリスト紀元)にも匹敵するような、単一の無限紀年法(皇紀)を独自に作り上げた事になります。
そしてそれは、この国が初代の天皇陛下の即位と共に始まり、皇室の歴史(皇統)と一体であるというこの国の形、アイデンティティ(国体)を内外に明確に表すものでもありました。
明治二十二年には紀元節を期して大日本帝国憲法が発布され、日本は名実ともに近代国家としての歩みを進めて行ったのでした。
「建国記念の日」の制定は、戦後日本の復興への悲願
その後、紀元節は「大東亜戦争」敗戦後の昭和二十三年にダグラス・マッカーサーの占領軍(GHQ)が、日本の文化から国家神道を徹底的に排除しようとする過程で廃止となり、皇紀もほとんど使われなくなりました。
当時、新たな日本国憲法にもふさわしい祝日の法案として、片山哲内閣により紀元節が「建国の日」として盛り込まれていましたが、GHQによって削除されました。宮中においても「皇室祭祀廃止令」により、紀元節祭は行われなくなりました。しかし昭和天皇は臨時御拝という名目で二月十一日に同様の祭祀を続けられ、それは途切れることなく続いたという事です。何とも有難い事であります。
昭和二十六年にサンフランシスコ平和条約が結ばれ、翌昭和二十七年四月二十八日に発効し、名実ともに我が国は国際社会にも復活しました。この様に日本が独立を回復すると共に、国民の間にも紀元節復活の気運が高まりました。
その後、国会での議論を重ね、昭和四十二年の二月十一日に「建国をしのび、国を愛する心を養う」という趣旨で、「建国記念の日」が国民の祝日として制定されました。
佛教的に少し興味深い話ですが、この間の議論の中で、「建国記念の日」を聖徳太子の十七条憲法が発布された四月三日にしようという案が、一部の政党と朝日新聞社から出され、世論調査では第五位の六・一パーセントの賛成があったという事です。
元の紀元節のままの、二月十一日に賛同する割合は四七・四パーセントで、もちろん第一位でした。
「八紘一宇」は助け合いの精神
「国民の祝日に関する法律」の第一条には、祝日とは「美しい風習を育てつつ、よりよき社会、より豊かな生活を築きあげるために」定めるとあります。これはまさに貫主大僧正様が常々仰られている事と同じです。文化や歴史を大事にする事でより良き家庭が築かれ、より良き社会、より良き国が実現するという御法話の内容に通じます。
また、貫主大僧正様は、私達の一人びとりが皆、天皇陛下に繋がるという事を繰り返し伝えて来られました。
この「建国記念の日」に当り、私達の始祖の御先祖様でもあると思うべき初代天皇陛下、神武天皇の橿原神宮での詔の一節、
「八紘(あめのした)をおほひて、宇(いへ)とせんことよからざらんや」
というくだり、これが、
「多くの人々をひとつにして大きな家となし、皆で助け合って生きていく。私はそういう国にしたい」という神武天皇の国造りへの思いなのです。
今回の内容は、「建国記念の日」の日付から広げた話に終始しますが、この毎日息の詰まりそうなコロナ禍の喧騒の下で、私達日本人がどう考え、どう行動していくべきかの、少しでもヒントになれば有難いと存じます。合掌
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