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2021年05月31日大日乃光第2307号
皇円大菩薩様の伝説と蓮華院誕生寺の縁起(一)

皇円大菩薩様の伝説と蓮華院誕生寺の縁起(一)
 
いよいよ当山で最も大切な六月大祭、皇円大菩薩様御入定八百五十三年大祭が迫って参りました。
 
玉名では例年より半月以上早い梅雨入りとなりましたが、その直前の五月十三日の御縁日の後、以前ご紹介した二人のアルティック(ARTIC/認定NPO法人れんげ国際ボランティア会)の若者が、無事にミャンマーへと飛び立ちました。現地での二週間の検疫隔離期間を経て、平野事務所長の下でミャンマーの教育支援事業に邁進する事になっています。毎朝の御祈祷の中で、皆さん方の日々の健康や祈願供養と共に、二人の無事と活躍も祈っております。
 
さて、感染力の強い変異ウイルスが急拡大する中で、緊急事態宣言が九都道府県に拡大され、信者の皆さんもそれぞれに忍耐の日々を送っておられる事と思います。他の十県にも「まん延防止等重点措置」が適用され、熊本県ではあろう事か、大祭の六月十三日が期限と定められました。(五月十七日現在)
 
蓮華院では新型コロナウイルス感染症の一刻も早い終息、犠牲者の追善供養、感染者の病気平癒、心身共に疲弊の極みにある医療従事者への健康祈願、生活困窮者の開運厄除けなどの祈りを込めてお参りを続けております。
 
来たる六月大祭でも感染防止対策を進めつつ、昨年同様、お参りを中心に大祭を執り行います。全国の信者の皆さん方がご自宅からリモートでご一緒にお参り出来ますように、インターネットで法要と御法話をライブ配信致します。
 
『大日乃光』でも来たる六月大祭に向けて、いま一度蓮華院信仰の原点を振り返るために、皇円大菩薩様の御入定の伝説と蓮華院中興の縁起を掲載します。まず初めに戯曲風の皇円大菩薩様伝記をお伝えします。
 
時ハ嘉応元年六月十三日
 
嘉応元年六月十三日のことでした。その日は蒸し暑い日でありました。
ここは太政大臣花山院(藤原)忠雅公の邸宅(太政大臣は今で言う総理大臣)。午前中はまだ爽やかな風が比叡山から吹き下しておりました。その風と共に一通の悲報が忠雅公の元に届けられました。
 
それは、
「皇円上人様がお亡くなりになりました」
という報せでありました。
「我が同族の皇円上人様はついにお亡くなりになったのか! 確か御歳九十六才であったのう。とうとう来るべき時が来たのか…」
と深い悲しみに沈みながら、在りし日の皇円上人様の温顔と謦咳が忠雅公の脳裏に蘇りました。
その悲しみを象徴するかのように、雲が低く垂れ込め、重苦しい空気が京の都を支配しました。
 
その日の申の刻(午後四時頃)、一人の旅の僧が忠雅公の邸宅に錫を止めました。
門前に佇むその僧侶が、
「当館の主にご相談があるので伺いました。是非にも主にお目通り願いたい」
「貴僧の御名前を伺いたい」
と門番が問い質すと、
「拙僧は比叡山に住いしていた皇円と申す者にございます。何としても主にお目通りしなければなりません。よろしくお取り次ぎの程を!!」
気品のある老僧の切羽詰まった申し出を受けて、門番は当主の忠雅公に言上しました。
 
忠雅公は、
「なに!! 皇円とな! そんな筈がない。皇円上人様は本日寅の刻(午前四時頃)におかくれ(亡くなられた)と聞いておる。その僧は皇円上人様を騙る売僧に違いない! 化けの皮を剥がしてやる。庭に引っ立てろ!」
と激怒なされました。
 
驚愕ノ対面
 
ほどなくして、旅の僧は忠雅公との面会が叶いました。
忠雅 「そこもとの名は?」
皇円 「肥後阿闍梨皇円と申す」
忠雅 「何! 皇円と申すか!! ならばその面を上げよ!」
静かに編笠から顔が見える程に、その旅の僧は顔を上げました  
忠雅 「おお! 皇円上人様、あなたがお亡くなりになったというのは間違いだったのですか?」
 
皇円 「否、それは誠のことです。私は半日前、今生を終えました。しかし次の生をうけることになれば、これまでの八十年余りの修行も学問も、全て忘れ果てることになります。その宿命を受け入れることは、あまりに残念に思いました。そこで永遠の命を保つという龍神に身を変えて、更なる衆生済度の心願成就のために修行を続けていきたいのです。幸い弟子の法然房が遠州の桜ヶ池を捜し当てました。彼の池こそ、龍神修行にふさわしい池です。しかしその池の領主にご挨拶をせぬままでは、その池に入るに偲びません。そこで桜ヶ池一帯の領主であられる貴殿に、龍神修行に入る許可を頂きに参上したのです」
 
感動で目頭を熱くした忠雅公が、
「そうでしたか。そのように崇高なご誓願を立てておられたのですか…。そのようなご誓願の前には私の所領であろうがなかろうが、もはやどうでも良いことです。どうぞお心おきなく桜ヶ池にて龍神修行にお入りなされませ」
そう言い終わるや否や、皇円上人様は忠雅公の前から忽然と姿を消してしまわれたのでした。
 
火急ノ早馬
 
それから数日後、忠雅公の所領である遠州から、早馬で火急の報せを持った使者がやってきました。
「頼もう頼もう。我は遠州よりの伝令を仰せつかった者でござる。当家の主に伝えたき事ありて、罷り越しましてございます」
 
その報せには次のように書いてありました。
『桜ヶ池の上に風も吹かないのに突然龍巻が起こり、雨も降らないのに大洪水を起こし、池の中の塵芥を全て周辺に払い上げてしまいました。周辺の住人は大いに驚いております』と。
 
「その日はいつだ!」
と忠雅公が尋ねると、
「六月十三日の申の刻でございます」
という答えでありました。
 
「不思議なこともあるものだ。その日、その時刻に霊体となられた皇円上人様が当家においでになられて、桜ヶ池を借り受けたいと仰られた。その日と同じ時刻ではないか。そうだったのか。皇円上人様はまさにあの直後に桜ヶ池に龍神としての修行のために、御入定なされたのだな」
 
ここまでの話は法然上人様の伝記の内、『源空上人私日記』と『九卷伝』に記されていることです  
 
開山上人様への御霊告
 
このことから皇円上人様が龍神となられて、桜ヶ池に修行のために御入定されたという伝説が始まったのです。今年の六月十三日は、その龍神入定から数えて八百五十三年目に当たります。
 
皇円上人様の龍神入定の後、皇円上人様の甥の子の弟子に当たる惠空上人様が、当山の前身にあたる浄光寺蓮華院を建立なされました。その場所こそ、皇円上人様のお母上様の一族とされる大野氏の館跡であり、現在の玉名市築地のこの蓮華院誕生寺なのです。以来蓮華院は、肥後の国一帯の巨刹、名刹として法燈を輝かせました。
 
国指定重要文化財の『東妙寺文書』によれば、鎌倉時代の永仁六年(一二九八年)肥後国浄光寺(蓮華院)が当時の朝廷から、寺域での乱暴狼藉や、みだりに生き物を殺す事を禁じる「殺生禁断の宣旨」という詔勅が下されたことが記されています。つまり、その当時の天皇陛下から直々のお墨付きを戴くほどの由緒のある大寺院だったのです。
 
その後、時代の変遷と共に、さしもの大寺院であった蓮華院も、ついに天正年間(戦国時代)に戦禍に巻き込まれて焼失し、後には小さな草堂を数ヶ所残すのみの廃寺となってしまいました。
 
以来三百五十年程の年月を経た昭和四年、先々代の川原是信大僧正様(開山上人様)が、
『我は今より七百六十年前、遠州桜ヶ池に菩薩行のため龍神入定せし皇円なり。今、心願成就せるをもって汝にその功徳を授く。今より蓮華院を再興し、衆生済度に当たれ』との御霊告を受けられたことから、当山の中興への道が始まりました。
 
以来この御霊告だけを頼りに、現在の本堂周辺に仮本堂と庫裡(寺院の住居)が建てられ、最初は細々と、しかし力強く寺院としての歩みが始まったのであります。(続く)




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