2021年11月26日大日乃光第2323号
奥之院建立は信者の成道のためと発願の御心を噛みしめた開創法要
奥之院建立は信者の成道のためと発願の御心を噛みしめた開創法要
平坦ではなかった開創への道程
皆さん、全国各地からようこそお参りなさいました。と申しましてもコロナの関係で、遠く九州まで足を運ぶ事をご遠慮された方が多いかと思います。ただ今、奥之院の開創四十三周年の法要を修しました。
今日私は娘と会話をしながら奥之院に来ました。奥之院の開創当時、もちろんその娘はまだ生まれていませんでした。
私は昭和五十一年三月十四日に帰山して、それから開山上人様(是信大僧正様)のご指導の元、毎日奥之院に通って土方仕事に邁進しました。その頃、この中に居られる準教師の荒木英賢さんと一緒に作業したり、山林の伐採等をしたものですが、当時経験した事を今しみじみと思い返しております。
その当時は行政が日本国内の大規模開発を極端に抑えようとする方針でした。「国土利用計画法」と言って、五千平米以上の開発をする時には事前に届け出が必要で、許可もいるという事でした。
しかも折悪しく、昭和四十年代の後半にはこの地域に大雨による災害がありました。今は見えませんが、その頃の小岱山はみかん畑が半分近くを占めていました。そして林道を作るための道も造られていました。そうした中に大雨が降りましたから、それこそ大量の土砂崩れが起きて、下流域の人達は大変な被害を被られたのです。
開山上人様の天才的な土木の才
ところが私が帰山した頃には、すでに外に土砂が流れないように工夫された整備が、かなり進んでいました。どこでそんな事を習われたのかは分かりませんが、開山上人様は実は天才的な土木技術者でもあられたのです。
一つの例を挙げますと、今、奥之院に大梵鐘がありますが、最初に鐘があの高さになるように土台を造り、その上に大梵鐘を載せて、そして後から鐘楼堂を造ったのです。鐘楼堂を先に造って、大梵鐘を備えたわけではないのです。とてもそういう風には造れません。ですから先に造られた土台の上に大梵鐘を載せて、鐘楼堂工事が始まったのです。
この土台工事を専門家に頼むと、これは壊すのが大変になると難色を示され、では自分がすると言われて、開山上人様が自ら図面を引いて土台を設計されました。
それを元に私がコンパネを作ったり、コンクリートを流し込む作業をしたんですけれども、鐘楼堂の現場監督だった大浦さんが「この強度を計算したら、ぎりぎりで造ってある。余分な物が何も無い位に造ってある」と、後に言われました。なぜこんな専門的な計算が一僧侶に出来るのかと、不思議がられていました。
それ以前の段階でも、造成地から土砂が外に流れない様な工夫が随所に施してありました。
その中で、この辺りに水が集まるようにして池にしたり(今の桜ヶ池男池)、下の池も水が集まるようにしてありました(同じく桜ヶ池女池)。
開創を阻んだ最大の難局
ところが下流域の人達から「蓮華院さんが何か大工事をされている。そのせいで、うちは土砂災害を被った。大迷惑している」と、反対運動が起きたんです。
それを受けてか、県から「工事を進めるには、蓮華院が下流域住民全員の承諾書を取りなさい。それを取れたら許可するテーブルにつきましょう」と言われたそうです。
それを聞いて、当時県会議員だった故川原弘海伯父さえも、「お父さん、もうこれでは工事が出来ません。これはもう無理という事、工事をするなという事ですよ」と言われました。
しかしそれを聞いた、当時まだ一番新しいお弟子さんであった西田快玄さんが、「お父上様が折角、人生最期の総決算をしようとされているのに、息子さんご自身が反対されるのですか!?私が何が何でも全員の署名を取って来ます」と言われたんです。
これは常識的には不可能な事です。ところがこの西田さんは知恵者で、農業組合とか何々地区とか、そういう人達で会合を開いて頂いて、これは組合長に任せます。これは区長さんに任せます。という風に、地域での会合や会議を何百回も開いて、それが実現出来たんです。
帰山早々に難局にたずさわる
私が帰って来たのは昭和五十一年三月と言いましたが、その頃既に下流域の地域の代表者がまとまっていました。そしてその人達十数人の許可を貰えば、県から出された苛酷な条件をクリア出来るという段階でした。
私は自動車免許をペーパードライバーで帰って来て早々にダブルキャブトラック一トン車に西田さんを乗せて、一升瓶も何本か載せて狭い荒尾の道を東奔西走していたのを、昨日の事の様に思い出しながら、今日奥之院に上がって来たのです。その甲斐あって、見事、下流域全部の許可が取れたんです。
そのための最終会議が昭和五十一年五月十九日に開かれました。そして丸二ヶ月後に正式な許可が下りました。そして八月に、先の土台の上に大梵鐘が納まったのです。そういう経緯を経て、やっと本格的に工事して宜しいという許可が下りたわけです。おそらくほとんどの方は、この話をご存知ないと思います。
荒尾の多くの人達も会合に参加して下さって、区長さんや水利委員長さん達に委任するための会議が何十回も、何百回も開かれました。そしてその最後の最後の段階で、私も関わりました。以上が、奥之院が開創出来るか否かの非常に大きな大きな山場だったのです。
十九、十九の数奇な縁?
「なぜ日にちまで覚えているの?」と娘に聞かれました。昭和五十一年五月十九日は、私の二十四才の誕生日だったからです。
それから丸々二ヶ月おいて、七月十九日に正式に許可が下りました。そしてこの仁王門の最初のコンクリート打ち工事が昭和五十二年の二月十九日。それから第二回目が三月十九日。
そろそろ今日あたり、何か次の工事があるかなと思えば四月十九日と、立て続けに十九日が続いたのです。
これはよっぽど自分には、奥之院にご縁があるんだなと思いました。そして、しみじみと、これは一生懸けてこのお寺を立派にせないかんなと、その当時決意したものです。
四国お遍路中に運命の一声
実は私は大学院に行きたかったのです。もっと勉強をしたかった。先生からもぜひ来なさいと薦められていたのです。ところが開山上人様の「英照、すぐ帰って来い!」の鶴の一声が掛かりました。
ちょうど四国遍路している最中でした。六十一番まで行って、なぜか分かりませんが、蓮華院に電話したんです。すると「帰って来い」と言われたのです。それ以来、六十一番から先はお参りしていません。死ぬまでには何とか、お遍路を再開したいと思っております。
土方作業に〝がまだした(精出した)〟日々
そういうことがあって、私は奥之院で土方三昧の日々を送りました。あの仁王門の基礎工事ですが、実は私と原田さんと松永さんと後二人、玉名病院の患者さん二、三人で、ブルドーザーで削った後の土を除いて、そして大きな石を積んでバラスを敷き、填圧をしています。
それら全てを一日でやり遂げたので、開山上人様が驚き喜ばれました。
御霊廟(大佛様)の所から下っていく道(今の真宝道)があります。長さがちょうど百八メートルです。その舗装工事も私と二、三人と左官さんで一日でやり遂げました。今考えると、「あの頃、よーがまだしたなー(よく頑張ったなー)」と思います。鐘楼堂も仁王門も、その瓦とその下に敷く漆喰の半分は私が運びました。
真の完成まで半世紀の道なかば
そういうことがあって、昭和五十三年の十一月に奥之院が無事落慶しました。
それでもまだまだ木々は殆ど無くて、庭工事が終わっていませんでした。先代真如大僧正様が発願された護摩堂も、大佛様も当時はまだありませんでした。
その落慶法要の後、地元の熊本日日新聞社の記者からインタビューを受けました。まだ工事の途中でしたので、「これはいつ頃完成しますか?」と聞かれて、私は即座に「五十年かかります」と答えました。「えっもうすぐ出来るんじゃないんですか?」と問われて、「形は出来ます。しかしそこに魂を入れ、そこが修行の場として活き活きとするためには五十年はかかるでしょうね」と答えたのをはっきりと覚えているのです。
そういった意味では、奥之院はまだまだ建立途中であります。「建立」と言うのは、一つ一つの石垣を積んだり瓦を葺いたりと、具体的な石や瓦の事を言っているのではありません。
魂を入れて頂くのは勿論我々の責任ですけれども、全国の信者の皆さん達の努力、協力無くしては出来ません。
開山上人様の大慈悲心
開山上人様は奥之院の建立について、
「末世衆生が、多くの人達が修行をし、この世の様々な苦しみを乗り越えるために造るのだ。信者皆が功徳を積み、成佛するために奥之院を建立するのである」と仰いました。
どうか皆さん、その時の心意気、そして深い深い慈愛の思い、そういったものを今日の奥之院大祭で、これからまだじっくりと感じ取って頂きたいと思います。
今日は開創法要に当たり、当時の昔話を致しました。本日はありがとうございました。
合掌
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