2022年02月22日大日乃光第2330号
〝香煙絶ゆる事無き霊場〟への日々の精進こそ当山の目標
節分が過ぎ、奥之院での開運豆まき、御縁日の本院での豆まきも無魔成満しました。
さて今回も、私の高野山での青春時代に体験し、その後の僧侶としての人生に決定的な影響を及ぼす事になった、二度目の神秘的な宗教体験をお伝え致します。
一念発起で酷寒の水行
それは私が二十一歳(昭和四十八年)の二月十一日の事でした。
その二年前に高野山専修学院での修行生活を通じて、僧侶として生きる決意をしたものの、いつの間にか怠惰な学生生活を過ごすようになっていました。
「このままではいけない!!」と一念発起して、その年の一月二十一日の「初大師」の日から二月十日までの二十一日間、高野山の奥之院を流れる玉川の水行場(すいぎょうば)で水行を修する事にしました。
それは当時、開山上人様(是信大僧正様)が奥之院の開創に心血を注いでおられる事を、当時の『幸福への道』(『大日乃光』の前々身)を通じて読むにつれ、「せっかく僧侶になる決意をしたのに、こんな生活を送っていては駄目だ!!是信大僧正様が頑張っておられるのに申し訳ない!」と思ったからでした。
最初に水行を始める前に開山上人様に、「これから二十一日間、水行をします。時間は夜七時に下宿を出発して、七時半頃からになります。宜しくお願いします」と電話でご報告し、
「よし、分かった!!拝んでおく!!」との短いお言葉を頂いて、勇躍、水行場に向かいました。
夏にそこで水行をした事が何度かありましたが、酷寒の中での水行となると初めてでした。
水が流れているので凍ってこそいませんが、周辺の氷を踏みしめ、気合を入れて肩まで水に浸かると、全身を針で刺されるような、冷たさを通り超して激痛を覚えるほどの流水で、必死に印を結びました。
その痛みに負けないように、胆の底から大きな声を絞り出しながら、『般若心経』三巻、水天の御真言、御宝号などを一心不乱に唱え続けること数分…。水から上がり元の衣に着替える時、不動堂の回廊に脱いだフンドシは一分も経たない間に完全に凍っています。
骨の髄まで凍えきった身体は、全身がガタガタと激しく震え、歯の根も合わない程の寒さに耐えながら、約二キロの暗い参道を帰って行きました。あまりの厳しさに、二日目には「何故こんな約束をしてしまったのだろう…」と後悔の念のままに水行場に向かいました。衣を脱いで水に入る直前は、「またあの苦しみを味わうのか!」と一瞬たじろぎましたが、何とか意を決して水に入りました。
大いなるお力に守られた修行
しかし三日目からは「こんなに軟弱な心持ちでは駄目だ!」と思い直し、併せて断食を始める事にしました。それから四日目、五日目と、全身を針で刺すような痛みに加えて、後頭部にズキンズキンと激しい痛みにも襲われました。
断食を始めて三日目に、開山上人様に電話でご相談してみました。すると、「水行中に断食はするな!命が危うくなる!まだ三日目の断食だから、お粥から復食せよ!」とのご指導を頂きました。その夜から、お粥を食べて水行に向かいました。三日後に通常食に戻すと頭痛が完全になくなり、何とか水行を続ける事が出来ました。
十日ほど経った頃には大雪となり、夜には奥之院の石畳参道がガチガチに凍りつき、しかも電線が切れていたので、完全な闇夜の中の水行となりました。その時まで、足袋を履いて雪道の参道を往復していたため、体温で足袋が濡れて足が凍傷になりかけたので足袋を脱ぎ、雪駄を履くだけにしました。
そんな中でも一度も雪道で滑ったり転んだりする事もなく、暗い中でも道に迷う事なく、淡々と水行の日々を重ねて行きました。こうして開山上人様の祈りに守られている事を有難く実感しました。
驕りの心を戒められた問答
そんな中、翌日で結願を迎える二月九日の夜、水行を終えた後で何となく、専修学院時代の同級生のいる行法師(奥之院で日々弘法大師様に食事をお供えしたり、参詣者のために護摩を焚くなどを務める僧侶)の部屋を訪ねました。
すると、その部屋には三人の行法師の方々が居られました。その中のお一人が、「随分熱心に水行に励んでおられますが、貴僧はお大師様(弘法大師様の事)のどの言葉を座右の銘にしておられますか?」と質問されたのです。
その時は若気の至りと申しましょうか、私は間髪を入れず、「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願いも尽きなん」(この宇宙が無くなってしまい、苦しみや悩みを持つ人々が居なくなってしまい、安楽な世界や覚りさえもなくなってしまわない限り、私の願いは終わらない)と、すごい言葉を言っていました。
また別の方の「何のために、こんなにも熱心に水行をしておられるのですか?」との問いに、私は、「うちの寺は信者寺で、祈祷寺です。その多くの信者さん達の期待に応えたいと思っての事です」と答えますと、その方は、「信者さんの期待に応えるよりも、信者さんを悲しませたくない!という言葉を聞きたかったですね」と仰ったのです。その時、私は自分の中の奢りの心を見事に見透かされ、もっと無心に虚心に行じなければ行の意味が無い!と痛烈に思い知らされたのでした。
また別の方は、「結願の前日に行の成果として、心中に大きな気付きを頂く事がよくあるものです」と淡々と話して頂きました。「そうだったのか!私は自分が水行している!自分が水の中に入って唱えている!と、これまでは『オレが!オレが!』の我慾で水行をしてきた。明日の最後の水行では、水の流れと一体になるような気持ちで行じさせて頂こう」と心に大きく響き、感じるものを得たのでした。
水行結願後に至福の宗教体験
そしていよいよ二十一日目の、最後の水行の日(二月十日)が来ました。気負いのない思いと爽やかな気持ちで通い慣れた参道を進み、水行場に着きました。その後、いつものように水行を終えると、二十一日間道場を使わせて頂いた御礼と感謝の思いで、お大師様の御霊廟の前に一晩座してお参りすることにしました。
その時は、これまで二十一日間そうしてきた様に、無明の橋のたもとに履物を揃えて裸足でお参りしました。後で知った事ですが、一緒に下宿していた弟の光佑(現在の宗務長)が、夜遅くまで帰って来ない私を心配して水行場まで見に来てくれました。すると履物が揃えて脱いであったので、川に流されてしまったのかと、大そう心配を掛けてしまいました。今思えば悪い事をしたものです。
さて弘法大師様の御廟の前で座していると、夜の十時にも十二時にも、二時でも四時でもどなたかが代わる代わるお参りされて、お香と灯明を供えられるので、ついに朝の五時になっても灯明の光とお香の煙が途絶える事がありませんでした。眼前でその光景に接し、まさに「香煙絶ゆる事なし」を実体験として知ったのです。弘法大師信仰の凄さと素晴らしさを、しみじみと見せて頂いたのでした。
その後、御霊廟を守るように建てられている燈籠堂で、先夜の行法師の皆さんと一緒に朝の勤行を勤めて帰路に着きました。その時、昨夜まで夜の暗い中で行じさせて頂いた水行場を、久しぶりに明るい中で拝しました。その流れは地獄まで見えるのではないかと見紛うばかりに透明な水を湛えて流れていました。
「よくもこんないい加減で、不遜な心根の私を受け入れて頂いたものだ…」という思いが湧き出した瞬間、二年前のあの時と同じような感動と共に、止め処なく涙が溢れ出して胸元を濡らしていきました。
帰り道は深い霧に覆われ、そこに昇り始めた朝日で、まるで白いベールに包まれたように全身が輝きました。日輪が木漏れ日となって私を包み込み、周りの木々や石畳の石さえも「よくやり遂げたね!良かったねー!!」と祝福してくれているように感じながら、至福の心もちの中で帰りました。
日々の修行と信心で歩む〝蓮華院霊場〟への道
その二年後には高野山大学を卒業して、蓮華院に帰ってきました。その後、三年間ほどは奥之院建立のための下働きに汗水を流しました。
まずは奥之院外境内での伐採と植林作業。鐘楼堂や仁王門、五重御堂などの瓦葺き工事の小取り(職人さんが瓦葺き作業に没頭出来るよう漆喰を練り、瓦と共に職人さんの手元まで運ぶ役割)。鐘楼堂の瓦の半分は、私が運びました。
奥之院の落慶大法要の後、奥之院の院代(院主代行)として五年の歳月を送りました。特に印象深かったのは落慶法要の直後、地元紙『熊本日日新聞』の若い記者から、「この奥之院は、あと何年ぐらいで完成しますか?」との質問に、「あと五十年はかかるでしょうか!」と答えたことです。その記者は思わず絶句されました。
確かに工事そのものはあと四、五年で終わるかも知れませんが、高野山の奥之院の様に信仰の聖地、つまり霊場としての風格と威厳漂うようになるには最低でも後五十年はかかるという意味で、その様に答えたのでした。
奥之院が、果たしてあと七年で〝霊場〟と呼ばれるようになるか。こればかりは我々僧侶の日々の修行の積み重ねと、ここにお参りされる信者の皆さん方の信仰心が決める事となるでしょう。合掌
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