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2022年09月12日大日乃光第2348号
心を清めて願い事を叶え、周囲を照らす灯し火になろう

心を清めて願い事を叶え、周囲を照らす灯し火になろう
 
信者の皆さん、ようこそお参りでした。暦の上では白露の候を迎え、こちら九州でも朝夕は玲瓏たる秋虫の羽音に秋の訪れを感じるようになりました。
 
今日も添え護摩に込められた皆さん方の願いに寄り添い、念を込めて護摩を焚く事の有難さを感じました。
 
今回はごく初歩的な内容ではありますが、意外にご存知ない事かもしれませんので、「護摩」というのがそもそも何なのかを、少しお話ししてみたいと思います。
 
人々の願い事に寄り添ったインド古来の聖なる火の儀式
 
そもそもこの「護摩」という文字は完全に当て字です。護摩の「摩」が仮に「魔」であれば、「魔から護る」と意味が通りますが、『般若心経』の「般若」(智慧の意味)と同じように、これは「ホーマー」という古代インド語の意味を訳さずに音だけをそのまま音訳したわけです。そしてそもそもこのホーマーは、実は佛教の作法ではなかったのです。
 
佛教成立以前の古代インドにおいて、人々の祈りや願いを受け入れていたのはバラモン教(後のヒンドゥー教)の神々でした。その中に火の神様、火天がありました。他にも水天、風天、地天、日天、月天と、天地自然の様々な要素に神々を見出していたのです。ここは日本人の宗教観と少し似ています。そして願いを叶えるために火天に祈り、そこに様々なお供え物をしました。
 
こういった祈りの形式は、インド古来の宗教に限らず、様々な民族の中で宗教的な儀式として、聖なるものにお供えをするという行為が行われてきたのです。
 
例えば宗教の「宗」という漢字は古代中国の象形文字が元ですから、その字形に元の意味が残されています。宀(ウカンムリ)は屋根で、その下に丁字が描かれています。これはお供えするための台で、三宝(お供え物を載せる台)のようなものです。その上にお供えするものが載っている形をしています()。
 
「犠牲」という文字からも伺えるように、古代中国では神様に動物を殺してお供えしたので、台の左右に血の滴る様子が「示」の形に表されているのです。皆、聖なるものにお供えをして願いを叶えたいと思ったのです。それは子孫の繁栄であったり健康であったり、民族の繁栄や発展などを祈ってきたわけです。

その時に古代インドでは火を燃やし、色んなものを火にくべて天に届け、願い事がどうか叶いますようにと祈りました。日本でも佛教が入ってくる前から、神様に祈る時に火を燃やして儀式を行う神事があったと思われます。
 
人間と動物の一番大きな違いは、火を恐れず、生活に活かす能力を持つ事です。その火を儀式にも使う事で、火を不思議な力を持つものとして印象付けると共に、人々の心を非常に引き寄せる心理的効果をもたらしたのです。
 
聖なる火の儀式から護摩祈祷へ佛教による「換骨奪胎」とは?
 
古代インドの人々はこの様な「ホーマー」(護摩)で、色んな願い事や祈りを続けていたわけです。それを佛教が、より広く多くの人びとを信仰に導き入れるために取り入れたのがこの護摩の作法だったのです。
 
詳しく言えば、まず土を耕し、神聖な動物とされる牛の尿を撒いて大地を清め、そこに炉を築きます。その中にさらに曼荼羅を描いて、その上で護摩を焚くという儀式でした。
 
今から十七年前にダライ・ラマ法王猊下が当山にお越しになった時にも、護摩を焚いて頂きました。準備段階から拝見すると、やはり炉の中に曼荼羅を描く作法があり、チベット佛教の方が日本以上にインドの伝統をきちっと受け継いでいるという事がよく分かりました。
 
ここで一番肝心な事ですが、実は佛教では願いを叶える事自体は副次的、二次的な事柄なのです。佛教の一番大事な極意は、①悪い事をせず②良い事をなし、そして③自分の心を清める事、この三つなのです。この自分の心を清めて行くというところに護摩を活かしたわけです。
 
護摩の炉は、小さな薪にも組み方が決まっていて、一番最初に食欲や性欲、睡眠欲などの根本煩悩を象徴する檀木(薪)を炉の中央に入れます。それに次いで色んな形に薪を組んで行きます。要は薪を自分自身の煩悩に見立て、佛様の智慧の火で焼き尽くすというわけです。
 
その前にもっと大事な瞑想があります。どういう瞑想かと言えば、佛様と自分とそして護摩の炉、この三つが本来平等であると観想(瞑想)します。具体的には、佛様の実態は智慧の火であり、自分自身の智慧の火と同じであり、炉の口は佛様の口であり自分の口でもあり、その口から出てくる炎は自分の中にある智慧の火でもあると瞑想します。
 
この佛様と炉と自分の三つが同体であるという瞑想に入らなければ、佛教の密教の護摩にはならないのです。瞑想を抜きに護摩を焚けば、それはヒンドゥー教の護摩(ホーマー)と一緒になってしまいます。さらに薪を煩悩に見立てて煩悩を焼き尽くす、つまりマイナスを取り去ると同時に、それがひいては願い事を叶える事にも繋がって行く。そういう方便と言うか、心構えで護摩行を修するのです。
 
「換骨奪胎」という言葉があります。他のものの表現や着想などをうまく取り入れ、これに創意を加えて自分独自のものとするという意味です。ヒンドゥー教の護摩と佛教の護摩は表面上は全く同じ形に見えますが、後者は換骨奪胎して佛教の魂を込めたのです。
 
願い事を叶えた後が肝心
 
そういう事が千四、五百年前にインドで行われました。その目的は、佛教の教えを人々により広く深く浸透させるためでした。護摩を焚くというヒンドゥー教と同じ作法をとることによって、人々に佛教でも同じように祈る事ができると思ってもらうためでした。
 
ただしその時に佛教ではもう一つ、煩悩を焼き尽くす事が大事だということを、祈りの形を通じて、また説法を通じて、さらには僧侶自身の生き方を通じて、一緒に人々に伝えて行ったわけです。
 
願い事を成就するという事だけでしたら、これは佛教ではなくなるのです。ですから時にはこういう話もしなければいけません。しかし人というものは願いを叶えて頂きたいと思う時ほど、より真剣な気持ちで祈るものなのです。
 
開運招福、家内安全、子孫繁栄、健康長寿等々…、昔から人びとの願いは尽きません。
その気持ちはよく分かります。そして真剣に祈って願い事が成就すると、何か偉大な力を実感し、人は謙虚な気持ちになります。
 
それと同時に、その願いが成就した暁には、その結果としてこれからどのように生きるべきなのか?と自分自身に問い掛ける事が大切なのです。
 
お陰様で佛様のお恵みを頂きました。でもお恵みを頂いたら頂きっぱなしではいけないと、何かお返ししなければ、何か恩返ししなければ、という気持ちが自然に湧き起こって来るはずです。
 
その時に佛教では、他人に対して施しをしなさいとか、社会に奉仕しなさい等と、様々な具体的な良き生き方を示して来ました。
 
心を綺麗にするためのお参り
 
私達真言宗の僧侶は、外に現れる形ある護摩を焚く時以外にも、瞑想の中で「火生三昧」に入って修す「内護摩」を修します。「火生三昧」と言うのは、自分自身が燃え盛る炎そのものになりきるという瞑想です。その瞑想の中で色んな煩悩を焼き尽くしながら、それと同時に様々な願いが叶うように修します。
 
日常的に修する場合は「内護摩」として瞑想の中で護摩を焚き、自分自身が護摩の炉となり炎となって、人々の願いを浄化しつつ叶えて頂くという御祈祷を修しております。所要による出張や、入院治療中の御祈祷は、特にこの「内護摩」を修しています。
 
本堂でのお参りで「先祖追善護摩供養」や「病気全快護摩祈祷」等を修する時は、「外護摩」として実際に護摩を焚いて修します。
 
ここで皆さんがお参りされる時に、気を付けて頂きたい事があります。それは『般若心経』などのお経をお唱えする時に、がむしゃらに「お願いします」「お願いします」と心の中で念じながらお参りするのではなく、まずは心の中を綺麗にする事を、第一に心がけるように努めて下さい。
 
お経の所は淡々とお唱えして、その一番最後の「廻向文」の所に来て、初めて「どうかよろしくお願いします」と心を込めて、静かにお祈りするようにして下さい。
 
それは、具体的なお願い事をずーっと心の中に抱えたままでお参りすると、却ってその一点に自分を追い詰めてしまう事があるからです。
 
皆さんが本堂でお参りされる時は、ご自分の心が淡々と綺麗に澄んで行くように努めながらお参りをして頂きたいと思います。その方が皆さんにとって、ご自分の煩悩を清めて行く事に繋がり、結果として願い事が成就するのです。
 
御縁日や準御縁日には、皆さん達も実際に護摩の炎を見つめながら、自分の中の煩悩が燃え尽きて行く…、「有り難いなー」と、そういう思いを一緒に抱きながらお参りして頂けば、それがそのまま護摩の行になって行くのです。
 
この本堂でお参りされる時だけでなく、それぞれのご家庭でお参りされる時も、佛様の智慧の火で心の中の煩悩を焼き尽くして頂く事を念じて下さい。
 
一隅を照らす灯し火になろう
 
願い事を叶えるためには、自分自身の心を綺麗にする事が何と言っても一番大切です。精神的な成長が止まったままで願い事が叶った時、人はその願いや叶った結果をどのように行使するでしょうか?必ずしも良い事をするとは限りません。例えば権力を望んだ人が、その権力を濫用する事もありうるわけです。
 
そうではなく、少しでも願い事が叶い、それによって僅かずつでも前に進んで行けるという希望が見えた時、人はその有難さに感謝し、お返ししなければならないという気持ちが湧き起こります。
 
そのお返しとは、願いを叶えた皆さんが、少しでも周囲の役に立つ人になって行くという事なのです。比叡山延暦寺を開山された伝教大師最澄上人様は『山家学生式』の冒頭に、「一隅を照らす、此れ則ち国の宝なり」と説かれました。
 
御本尊皇円大菩薩様の絶大なる御霊力でご利益を頂かれた皆さん方のお一人お一人が、そのご家庭や地域から佛様の光を反射して、周囲を照らす灯し火になって頂きたいと、切に念じております。
 
ぜひ「一隅を照らす」、そういう心構えで様々な願い事をしっかり成就して頂きたいと切に願っております。合掌




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