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大日乃光






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2023年08月24日大日乃光第2378号
親子のあり方を問い続けられた真民先生、無着先生を悼む

寺内に揃った四篇の真民碑
 
今から二十四年前の平成十一年十月二十三日、「親を大切にする子供を育てる会」とKAB熊本朝日放送の共催で続けている「こどもの詩コンクール」の十周年記念事業として、本院の五重塔の傍に、坂村真民先生ご自身の揮毫による「大宇宙大和楽」の第五百九番碑を建立しました(この詩碑は現在も池の中に建っています)。
 
ひき続き、重さ五十トンを優に超える巨石に代表詩、「二度とない人生だから」を刻んだ第五百十番碑も、蓮華院御廟(霊園)の宝塔前で入魂序幕されました。
 
この二基に加えて、平成十四年一月十三日には「めぐりあいのふしぎにてをあわせよう」と刻んだ第六百十三番目の詩碑を、現在南大門が建っている場所に建立しました(南大門の建立が始まる前に、現在の南大門橋の南側に移設されました)。
 
これで、平成二年六月十二日に初めて奥之院に建立した「念ずれば花ひらく」の百三十九番碑と合わせ、真民先生の代表的な四篇の詩碑が、蓮華院の境内に全て揃いました。
 
しかし平成十三年の第十二回「子供の詩コンクール」を最後に、真民先生は「残る命の全てを詩作のためだけに使いたい」と、詩の選者(審査委員長)を降りられました。
 
その折りに「後は無着成恭師に引き継いでもらってはどうか」とご提案なさいました。
思えば八十一歳から九十二歳まで、十二年もの貴重なお時間を割いて、詩の選者としてよくお務め頂いたものと、先生には感謝の念に堪えません。
 
変わってはならぬ親を大切にする心
 
真民先生は、最後となったその第十二回の詩集の選評に、こう書かれています。
「…私は明治、大正、昭和、平成と生きて来た…この間世界も日本も大きく変わった。…でも変わって良いものと、変わってならないものとが、あることを知らねばならぬ。つまり物の世界は日進月歩変わってゆく、でも心の世界は昔も今も同じである。そのことを知らねばならぬ。
 
私が『子供の詩コンクール』の選考を引き受けたのは『親を大切にする子供を育てる会』だったからである。『子供を詩人にする会』だったら引き受けてはいない。私はこの年齢(九十二歳)になっても詩を書いているが、詩人になるためではない。詩を書くことによって、少しでもましな人間として生きたいからである。
 
親を大切にする心というものは、どんなに世の中が変わろうと、変わってはならぬ」
真民先生の生き方とお考えが、良く伝わって来るお言葉だと思います。
 
無着先生とのご縁繋ぎとなったSVAのカンボジア難民救済事業
 
第十三回目の「子供の詩コンクール」から、真民先生が推薦された無着成恭先生に審査委員長をお願いしました。
 
無着先生をご存知の方は多いと思います。お若い頃、『山びこ学校』という教育実践の書を出され、戦後教育のあり方に大きな一石を投じられました。その後も『詩の授業』『ヘソの詩』など、詩を通じての教育実践の書籍も出版しておられます。
 
私自身の無着先生とのご縁のきっかけは、今から四十一年前の昭和五十七年、タイ・ミャンマー(当時はビルマ)・スリランカへの佛教遺跡参拝、並びにカンボジア難民キャンプへの視察訪問の時に遡ります。
 
当時、既に現地で活動を進めていた現在の社団法人シャンティー国際ボランティア会(SVA)の前身、曹洞宗ボランティア会の発足当初からの現地スタッフであられた故有馬実成師と、当山の先代真如大僧正様とのご縁により、現在のれんげ国際ボランティア会(アルティック)の前身となった蓮華院カンボジア難民救済会議が設立され、カンボジア難民救済活動に同志として参画するようになったのです。
 
当山では今から四十三年前の昭和五十五年に真如大僧正様の「布施大道」の大号令の下、「同胞援助」「一食布施」などの浄財募金活動を開始しておりましたが、当時の日本国内で、佛教の教えに基づく難民支援の実践的な活動を推進していたのは、初代会長の故松永然道師と先の有馬師の元で活動していたSVAだけでした。
 
その活動のあり方と理念に賛同して、当寺に集まった信者の皆さんからの浄財を全て費やして、五年に亘り、SVAと共にカンボジア難民支援活動を続けました。そんな中でSVAは先代を顧問に迎え、私も理事としてSVAの活動に参画するようになりました。
 
その数年後、SVAの理事会に、同じく理事として無着先生が同席されるようになったのです。その頃、無着先生は、まだ明星学園の教頭先生であられたと思います。
 
もともと無着先生は山形県の曹洞宗の名刹寺院のご出身です。そこで当然のように東京にある曹洞宗立の駒沢大学に進まれる予定だったのですが、当時、東京は終戦直後の混乱の中にあったので、上京を断念されて山形師範学校に進学されたのです。
 
教育者から佛教者としての活動へ
 
無着先生は佛教者の心を持って教師の道を歩まれ、先に記した大きな成果を教育界に残されたのです。
 
私が初めてお会いした頃、先生はまだ教育者のお立場でした。その後、無着先生のお人柄に触れ、そのご著書を拝読する内に、蓮華院の地元の玉名市民会館で無着先生を講師にお迎えして、「教育を見直す市民の集い」を(社)玉名青年会議所の主催で開催しました。
 
その時の玉名市内での事前の募金に、無着先生の数冊のご著書を講演会で販売した売上金を足して、タイの農村部に「玉名市民文庫」と名付けた図書を寄贈しました。その頃、SVAは難民キャンプのあるタイの東北部で、文化教育支援事業として、このような「文庫」を広める活動を推進されていたのです。
 
その後、無着先生は教育界から本来のお立場の僧侶に戻られて、千葉の成田空港のすぐ傍の香取郡多古町の福泉寺のご住職となられました。この間、私は何度か福泉寺を訪ねました。
福泉寺での無着先生は、曹洞宗の寺院としてお弟子さん達を訓育されながら、奥様の無着とき様と共に国際ボランティア活動を精力的に実践しておられました。
 
無着先生との深まる縁
 
そんなご縁から、三十三年前の平成二年九月十五日の第一回目の「子供の詩コンクール」の表彰式では、第二部として無着先生の講演会を開催しました。
 
その二年後の平成四年七月八日に、先代真如大僧正様が御遷化(せんげ=僧侶が亡くなる事)なさると、無着先生からこんなお便りを頂戴しました。「人の世に死があることは良いことです。なぜなら今ある命の有難さを実感できるからです。何なりと仰って下さい。できる限り力になります…」
 
その年の奥之院の秋の大祭は、真如大僧正様追悼大祭として執り行いました。
すると何とも有難い事に、無着先生は「子供の詩コンクール」の特別三賞の詩碑除幕式の来賓として、千葉からわざわざ駆け付けて頂き、法要にもご参列頂きました。
 
そして先代にご縁の深かった故二子山理事長(当時。元初代横綱若乃花関)を筆頭に、奥之院で横綱土俵入りを務めて頂いた故北の湖親方(当時相撲協会理事)、故九重親方(元横綱千代の富士関)等と共に先代を偲ぶ集いを催しましたが、無着先生もご参加下さったのでした。
 
その後、無着先生は曹洞宗の管長猊下直々の要請によって、かつて全九州で曹洞宗の大本山的な役割を果たしていた大分県国東の泉福寺を再興するために、千葉の福泉寺から移られました。そのお寺も先の福泉寺と同じく空港の傍にあります。以前、国際ボランティア活動を精力的に実践されていた頃は、すぐ傍の成田空港からタイやカンボジアに度々飛んで行かれました。
 
その後も曹洞宗の重鎮として、大分空港から日本各地を巡錫されました。また佛教の教えや生き方を広く人々に広めるために、「南無の会」を主宰しておられました。
 
十四年前の平成二十一年三月十日には「宗派を超えてチベットの平和を祈念し行動する僧侶・在家の会」の九州地区代表として、佐賀の鳥栖市で行われた集会で、基調講演を務めて頂きました。
 
平成二十三年には奥様の介護のために別府市に移られ、最晩年には再び千葉の福泉寺に戻っておられました。
 
このようにご多忙の中にあられた無着先生には、有難い事に平成十四年から二十四年に至る十一年間「子供の詩コンクール」の選者(審査委員長)の大役をお務め頂き、その後も顧問として名を連ねて頂きました。
 
無着先生の選評
 
その無着先生から、当時、こんな選評のお言葉を頂戴しました。深く考えさせられるお言葉でしたから、あえてここにその一部を掲載致します。(以下は平成十七年十二月発刊の第十六回「子供の詩コンクール」の詩集に掲載)
 
「《親を大切にする子供を育てる会》という、なんとも長い名前の会の、応募した詩を読ませてもらっているうち、今年は、しみじみとこの名前しかないなあーと思いました。
つまり、詩を書くときの視点を《親》に限定したことがよかったということです。
 
今年で十六回になるわけですから、この十六年間、日本の親が、日本の子どもの眼によって括写されてきたわけです。
 
そういう意味で創刊号から、この詩集で十六冊になるわけですが、これは、平成という時代は、日本にとってどんな時代であったかということの証言―極めて重要な証言集であると言っていいと思います。
 
今年は戦後六十周年といわれています。その六十年の中で決定的だったことは、
(1)家族制度を崩壊させたこと。(戸主制度の廃止)
(2)財産の分配を、子ども全員に平等にわけるという制度になったこと。
(3)一組の夫婦が産んだ子どもを、長男とか次男とか、長女とか次女という呼び方をやめてすべて平等に「子」と呼ぶことにしたこと。
(4)さらに、今や夫婦別姓までとりざたされていること。
(5)したがって、日本から「家業」という単語は、今や死語になりつつあること。
少なくとも、このような国家経営(その国家の道徳・倫理)の根幹にかかわる哲学がほとんど議論されないまま、経済主義に押し流されてきてしまったという私の感想です。
 
母を語る子どもの詩、父をうたう子どもの詩。それらに目をとおしながら、子どものことも考えずに離婚にはしる親や、お母さんよりもお母さんらしいお父さんや、ぶよぶよで筋肉を持たない親―を、子どもからつきつけられると、これでいいのか!!と思うのです。
 
これでいいというのならいいでしょう。もちろん、そんな詩ばかりではありません。
わずかに救いになったのは、農業とか、漁業とか、お豆腐屋さんとか、世襲制をとっているお寺の子どもが書いた詩です。そこではまだ「家業」というものが成立していて、いわば、師匠と弟子という関係が、父と子、祖父母と孫の間にわずかに生き残っているからです…」
 
さて、この文章を読んで、皆さんはどう受け止められましたか?
親子の関係の内、特に父と子の間には本来、弟子と師の関係のように、先に行く者とそれに学ぶ者という関係があるべきなのですが、それが希薄になっている今日、父性の欠如をどう復活させるかが、無着先生が残された大事な問題提起であったと思うのであります。
 
「こどもの詩コンクール」は、坂村真民先生との不思議なご縁によって、熊本県第一号の詩碑を奥之院に建立するに当たり、一過性の催しに終わらないようにとの先代真如大僧正様のご深慮に従って始まりましたが、選者(審査員長)として内容面を牽引して下さった真民先生も、無着先生も、家族や親子のあり方を常に世に問い掛け続けて来られました。
 
世情は流れが早過ぎて目まぐるしい程でありますが、只流されるだけではなく、一度立ち止まって、ぜひ子供達の詩をじっくり読み返して、ご先祖様から受け継いだ命の連鎖について、ご自身の心でしっかり考えてみられるよう念じております。合掌




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