2024年02月27日大日乃光第2394号
皇円大菩薩様の御利益を一人でも多く「分福」しよう
立春に奥之院で開運豆まき
先の二月四日の日曜日は、春が立つと書き、新たな運勢の始まりとなる「立春」でした。
その佳き日に十一時から奥之院で開運豆まきを執り行い、十二時半から「功徳行」を始め、十三時に二回目の開運豆まきを修して、一時半に功徳行の護摩に入るという具合に慌ただしい一日となりました。
前夜に降り続いた雨は上がりましたが、午前中は濃い霧の中でした。それでも有難い事に、午前と午後合わせて五百人以上の方々が参加されました。一日中湿っぽい曇天の中にも関わらず多数お参りされた参詣者に、辰年生まれの年男・年女の皆さんとご一緒に鐘楼堂から豆まきを修しました。中には毎年繰り返し参加されている方が増えているようでした。
豆まきの前のお参りの中で大梵鐘「飛龍の鐘」を撞き、その佛音で豆をお加持しますが、今年は能登半島地震の犠牲者追悼、被災地早期復興の祈りも込めました。
今年は「甲(きのえ・東北東やや東)」の方角が歳徳神の、福の来る「恵方」ですが、方角には必ずしも拘らず、鐘楼堂から南側に向かって豆まきを致しました。
近年はコンビニの宣伝で、恵方については皆さんよく耳にされていると思います。二月三日の節分に、恵方に向かって笑顔で太巻き寿司を食べるという風習は、笑うように大きく口を開けて福を招き入れる意味合いがあるという事です。
さて、豆まきの時に、私は必ず「阿蘇の熊牧場のクマにならない様に」と話しています。
奥之院で豆まきに参加された方の中に、「こっち!こっち!」とクマを思わせるような仕草をする方がおられるので、私はいつも気にかかります。
この後の豆まきでは、皆さん一度、福豆を自分の体に当てて邪気を祓い、御本尊様の前で信者さん同士、仲良く豆を分け合って頂きたいと思います。
節分に当たり心の中の『三毒』を祓う
「節分」というのは春夏秋冬の季節の変わり目ですから、本当は年に四回あります。ところが、二月の節分だけが豆まきなどで世間によく知られていて、全国の神社佛閣では一年間の運勢の区切り、分かれ目とされています。
その意味で、二月三日の節分は運勢上の大晦日に当たり、その翌日の立春から新しい運勢の一年が始まるわけです。春のお彼岸と秋のお彼岸は二十四節気の春分の日、秋分の日を中日とする七日間の事で、これは雑節の一つに当たります。
二十四節気の中にはその他に「大寒」など様々なものがありますが、運勢の変わり目の今の時期が、特に厄祓いをするのに最も相応しい時期なのです。
貫主大僧正様が二月一日号に書かれたように、節分には「心の中の三つの鬼を退治する事」をいつもお伝えします。
赤鬼・青鬼などの鬼を佛教では「貪・瞋・痴」の鬼と言います。
自分のものではないのに欲しがる貪りの心(貪)、不必要で理不尽な怒りの心(瞋)、そして物事の道理の分からない無知な心(痴)。この「貪・瞋・痴」を『三毒』とも言い、この代表的な悪い心が鬼なのです。そして自分の心の中に居るこの三つの鬼を抑え、戒めるための節分豆まきなのです。
ですからくり返しますが、厄除けの意味でも、今日の豆まきでは、皆さん一度、自分の体に豆を当ててから拾うように心掛けましょう。
そして「この福豆は隣に拾えない人がいたら分けてあげて下さい」また「持って帰られたら『これは福豆ですよ』と近所の人に分けてあげて下さい」とお伝えしています。これを「分福」と言います。
幸運を大切に活かす「惜福」
明治の文豪、幸田露伴は『努力論』という書物の中で、「惜福」「分福」「植福」という福についての三つの心掛けを述べた「幸福三説」を唱えました。
まず最初の「惜福(セキフク)」は、自らに与えられた福を取り尽くし、使い尽くしてしまわずに、「天に預けておく」ということです。そしてその心掛けが、再度幸運にめぐり合う確率を高くする、と説かれています。
恵まれた幸運を使い尽くさずに、大切に惜しみながら使う事によって、その恵みを存分に活かす事が出来るのです。例えば二人の兄弟がいて、同じ様に新しい服を買って貰ったとします。
兄の方はその服を気に入って、普段から着ていました。すると大切な時には、傷んでしまって晴れ着にはなりません。
一方、弟も同じ様に服を買って貰いましたが、大切にしまって、日頃は古い服で我慢しました。すると大切な時に、大事にしまっておいた真新しい服を着る事が出来たというお話です。
私達の世代は、正月になると服や靴を親から買って頂き、とても嬉しかった思い出があります。そういった意味で、この「惜福」の例え話は実感としてよくわかります。
布施の心で分かち合う「分福」
次が先に述べられた「分福(ブンプク)」です。「分福」とは、幸福を人に分け与えることです。自分ひとりだけの幸福はありえない。周囲を幸福にすることが、即ち自分の幸福につながるという心掛けが説かれています。これは「恩送り」や「情けは人のためならず」に近い考え方と言えます。
露伴は、「すべて人世の事は時計の振子のようなもので、右へ動かした丈は左へ動き、左へ動いた丈は右に動くもの。自分から福を分かち与えれば、人もまた自分に福を分かち与えるものだ」と述べています。
お盆の時期にお伝えして来た目連尊者のお母様の佛教説話のように、恵まれた幸運を自分だけや、身内のためだけにひとり占めするのではなく、他の人にもお分かちする心掛けが大事なのです。
熊本の方言ですが、福は「がじめ」たらいかんのです。欲張って、何でもひとり占めする事が「がじめる」です。
「呼吸」という言葉の呼は「呼ぶ」ではなく、息を吹く・吐くという意味です。ですから呼吸は吐いて吸うという意味になります。大事な点は、まず吐かないと吸えないという事です。全部吐きだすと全部入りますが、半分しか吐かなければ半分しか入りません。
福も人に分け与えるほど、巡り巡って自分の所に帰って来るのです。ですから幸福になりたい方は出来るだけ「分福」に心掛けて下さい。手始めに、今日の福豆をぜひ分けて下さい。
まずご家族に。そして隣近所、会社関係の人、もっと広い地域の人。最終的には全世界、地球上の人々に福を分け与える。
本誌が皆さんのお手元に届く頃、この度の能登半島地震の避難所で、信者の皆さんからご寄付頂いた「三輪清浄」の浄財を元に、れんげ国際ボランティア会(アルティック)のスタッフが炊き出しを行っている事でしょう。これが少しでも被災地の皆さん達の心を励まし、信者の皆さん方の良き「分福」の一環になりますよう念じております。
この様な「布施」の心で周りの人々と福を分かち合うことが「分福」であり、「惜福」からさらに一歩踏み出して、人が幸せを実感し、広く周りを幸福にする方法なのです。
見返りを求めない「植福」
そしてその「分福」からさらに進めた幸福への道が、「植福(ショクフク)」です。「植福」とは、将来に亘って幸せであり続けるように、今から幸福の種を蒔いておく事、精進(正しい努力)し続ける心掛けの事です。
過去に自らが蒔いた種が芽を出し、今の自分を形作っています。過去を書き替えることは出来ませんが、今から良い種を蒔き続ければ、望ましい未来につなげることが出来ると、露伴は説いています。「幸福三説」で説かれた三つの心掛けの中でも、露伴は「植福」が最も優れていると述べています。
『木を植えた男』という有名な外国の本があります。見返りを求めず、ただ一人、荒れ地に木の実を植え続け、ついには森を蘇らせた老農夫の物語です。
たとえ自分は成果を味わえなくても、後世のために良き種を蒔き、苗を植えて行く。良き習慣を家庭の中に定着させて行くなど、未来への長い視点で人々を幸福に導く究極の道が、この「植福」と言ってもいいでしょう。
アルティックが色んな形で活動をしているのも一つの「分福」であり「植福」なのです。
ただし、最初から自分の得になるからという思いで福を分けるとなると、これは少し違います。
前回、「三輪清浄」と「ボランティアの三ヶ条」の話をお伝えしました。お布施というのは惜しんではならず、そして見栄を張ってもいけないのです。それと同じように、人に福を分け与える時にも自分が嬉しいから分け与える。
頂かれた人が「有難うございます」と感謝を表される。その笑顔と言葉を聞いて、自分が「やってよかったな」となる。そこで初めて「分福」、福を分けるという事が成り立つのです。
御本尊様の御心に適うために自分を磨いて分福に努めよう
節分の豆まきという行事一つとっても、参加する人の考え方次第で、自らの福を他人に分け与えるという「分福」の良い練習になると思います。
これを一つのきっかけ、佛縁として、皆さんも皇円大菩薩様の御遺徳を、周りの人達に少しでも知らしめ、御利益の福を周囲に分け与えるように努めて頂きたいと思います。
そのためにも、自分自身が周りから信頼されるような人になる事を目指して下さい。周囲の人から尊敬され、愛されるような人間になれるよう努力して下さい。そうして他の人に「分福」、福を分け与えて行かれたら有難いと思います。
それではこれより「分福」の福豆まきを執り行います。皆さん、まず福豆を体で受け止めてから拾って下さい。そして家に持ち帰ったら、周囲の人達にぜひ笑顔でお分かちして、「分福」を実践して頂きますよう祈念致しております。合掌
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