2024年06月25日大日乃光第2405号
皇円大菩薩様の御心のままに信者と手を携えて歩んだ中興
衆生の悩み苦しみに寄り添われた青年期の皇円大菩薩様
皆さん六月大祭にようこそお参りでした。
最近よく「今日は何の日」という話を続けておりますが、今日の六月十三日は、皇円大菩薩様が慈悲の心を以て一人でも多くの人々を、一切衆生を救いたい。そのための力を得たいというその一心の願いの籠った日であります。非常に有難い、有難い日です。
自分の事さえままならないのが私達の人生であります。全ての人が大なり小なり様々な悩みや苦しみを抱え、そして今も苦悩のただ中にある人も沢山おられる。皇円大菩薩様はお若い頃に日本各地を歩いて、そういう苦難の人々に真近に接し、ご覧になられたに違いありません。
皇円大菩薩様は『扶桑略記』を編纂するために全国を行脚されて、各地に残る様々な言い伝えや伝記を蒐集されました。例えば国ごとに文化風土や地勢をまとめた風土記などの地誌や、各地の貴族や豪族達が書き残した日記など、たくさん集められました。それらを上手に編纂し、佛教史として日本の歴史を綴られたのが『扶桑略記』なのです。
この『扶桑略記』を編纂されたのが三十代の頃と言われています。三十代と言えば血気盛んで、一番多感な頃でしょう。それこそ感性も鋭く、そして向上心を持ち、自信に溢れている。
そんな若い頃に各地を巡り歩かれて、疫病・災害・戦乱の中で苦しむたくさんの人々に接し、慈悲の御心で寄り添っておられた事でしょう。
輪廻の理を越える龍身入定
晩年の頃、皇円大菩薩様は輪廻の理に従って生まれ変わり、また何回も何回も転生したとしても、その一々の生で前世の事を憶えているわけではない。また一から始めなければならない事を考えておられました。
肝心の魂がそのままあったとして、完全に一から始めるわけではないのでしょうが、様々なやり方、人を助けるための手立て、そして慈悲心の起こし方、具体的に救うための霊力等…。そういったものは生れ変わり死に変わりしていては、一朝一夕にはなかなか到達する事が難しい…と。
お釈迦様にも実は過去七回生まれ変わられたという「過去七佛」という説があり、お釈迦様の過去世のお話が『ジャータカ物語』(『本生譚』)に書かれています。お釈迦様という偉大な人物を生み出すためには、それだけ長い生まれ変わりの繰り返しが必要で、一歩一歩確実に智慧と慈悲を磨かれて悟りを開かれたというお話しです。お釈迦様以降の初期佛教の段階で作り出された物語、それが『ジャータカ物語』なのです。
しかし私達は、皇円大菩薩様の前世のお話しを考える必要は無いのです。有難い事に、七百六十年という途方もない長い間、龍神に身を変えて修行しようと思い立たれて龍身入定された、まさにそれが八百五十六年前の今月この日の未明(寅の刻)の事なのです。
平安貴族の日記に遺された櫻ヶ池龍身入定の伝説
この時の事を花山院(藤原)忠雅公が日記に記されています。
嘉応元年六月十三日、皇円阿闍梨、叡山にて御遷化との報せを聞く。その日の午後(申の刻)、皇円と名乗る旅の僧が当家に来たと使いの者が言う。何、皇円阿闍梨はすでに御遷化と聞いておる。そやつは偽物に違いない、ひったていと。
忠雅公が見ると生前の皇円阿闍梨その人であった。そなたが亡くなられたとの報は嘘偽りか?と訊くに曰く、まさに然り。なれど龍身修行の池を法然が探してきてくれた。されど地主無き池も無かりしと。聞くに遠州櫻ヶ池を所有せしは忠雅公なり。故に許可を頂きたいと。忠雅公は「そなたの御心のままに」と、どうぞご自由にお使い下さいと応えられた。不思議の事也…と日記に書いてあるのです。
その件から数日後、櫻ヶ池のある遠州から火急を知らせる一報が入ります。
「櫻ヶ池に雨降らずして俄かに洪水出で、風吹かずして忽ち大波立ちて、池の中の塵、悉く払い上ぐ、諸人耳目を驚かす」
風も吹かずに突然龍巻きが起こり、雨も降らずに池が大増水を起こし、池中の塵芥を悉く外に払い出してしまったという事です。その様子に多くの人々が大変驚いたと。
「その日時を考うに、かの皇円阿闍梨が領家に参りて、彼の池を申し請いてまかり出でたる日時なり」
日時を考えると、皇円阿闍梨が花山院家を訪ね、修行の池に遠州櫻ヶ池を所望された、まさにその日時(六月十三日の申の刻)に天変地異が起きたという事でした。
花山院忠雅公は当時の太政大臣で、今で言う総理大臣です。そういう人が書かれた日記は第一級資料なのです。皇円大菩薩様が龍に身を変えて櫻ヶ池に入定されたという伝説はここに始まり、後に弟子法然上人の伝記、法然上人絵伝にも著されて伝わっています。
櫻ヶ池は堰き止め湖と言われ、遠州七不思議の一つとして、底を測る事が出来ない、深さが分からない池であると言われています。そういう深い深い池を皇円大菩薩様は選ばれて、魂を沈めて修行を続けられたのです。
弘法大師のお告げに導かれた蓮華院中興の御霊告
明治二十九年に、皇円上人の御入定された日付と同じ六月十三日に、一人の少年が、ここ玉名から十キロほど離れた菊水村に生を享けられました。後の開山上人、是信大僧正様その人です。
その子は一風変わった不思議な子供だったそうです。すぐ傍の谷川で冬に水垢離をしていて、理由を尋ねると、身を清めていたと答える。また何日か行方不明になり、皆で捜索した所、洞窟で土をこねて佛像を作っていたと。そういう非常に変わった子だったそうです。
青年になると更に信心篤くなり、弘法大師様を信仰するようになり、四国八十八ヶ所霊場などお参りされたそうです。そういった信仰体験の中で、佐賀の東妙寺の御住職に出会い、正式に真言宗の僧侶になりました。
当時の東妙寺はまだ小さなお寺でしたので、開山上人様は熊本に帰り、玉名郡荒尾(今の荒尾市)に一階が銭湯で、二階が祈祷所という家を建てられました。発想がユニークと言うか、不思議な方ですよね。
それから九年後の昭和四年六月二十一日の夜、開山上人様は、「来春三月、これより南三里の地に寺院を建立せよ」との弘法大師様のお告げを受けられました。そして同じお告げを八月三日の夜にも受けられました。
その頃、今の蓮華院のあるこの辺りは四つの小さなお堂のある、鬱蒼とした原生林と言うか、深い森の中でした。そして荒神さんが棲んでいるという江戸時代かそれ以前からの言い伝えがあり、付近を通る道が町に出る唯一の手段だったので、周辺の住民の間でどうにかならないかという訴えがありました。
偶々住民の一人が、荒尾の祈祷所に開山上人様を訪ね、これまで何度も祈祷師や神主さんにお祓いして頂いたけれどもどうしても解消しない、あなたのお力で何とか解消できないかと、開山上人様に御祈祷を頼まれたのです。聞けば、その距離と方角が、奇しくも弘法大師様のお告げ通りの場所でした。
早速、開山上人様は付近のお堂に籠り、三日三晩必死で御祈祷されました。そして十二月十日の早暁、
「我は今より七百六十年前、遠州櫻ヶ池に菩薩行のため龍身入定せし皇円なり。今、心願成就せるを以てこの功徳を汝に授く。よって今より蓮華院を再興し衆生済度に当たれ」
との御霊告を受けられたのでした。
その時、開山上人様には櫻ヶ池がどこにあるのかも、皇円という方が一体どういう人なのかも全くご存知なかったのでした。
御霊告に従っての中興第一歩
この御霊告を受けられて、開山上人様はすぐに準備に取り掛かられました。すると「もう十二月で年の瀬が迫っておりますから、そんなに急がずに、年明けて新年になってからにしてはいかがですか」と奥さん(私の祖母)に言われたそうです。それを聞いて開山上人様も、それもそうかと一瞬思われました。
するとその瞬間、皇円大菩薩様からの霊波が、すっと途切れたそうです。妻の言う事を聞いて、佛様との約束を延期するなどまかりならんと、固く決意されました。すると、皇円大菩薩様からの霊波が元通りになられたそうです。
私自身が南大門を造る時、また多宝塔を造る時には、必ず皇円大菩薩様の御霊示に従ってきましたが、開山上人様の時と同じように、家の者が色々考えて、急がなくて良いとか、無理などと反対されたものです。
確かに世間一般の感覚や常識と、佛様の御霊示というのは全く違います。佛様の御霊示は常識とは全く無関係です。ですから私自身が非常識に映ったかもしれません。しかし、佛様の御霊示に必ず従うのが、中興以来の蓮華院の伝統なのです。
そういった経緯で、開山上人様はほとんど資金も何もない中で色んな苦労をされながら小さなお堂を造られたのが、蓮華院中興の第一歩だったのです。
昭和五年三月二十一日の事でした。「来春三月に寺院を建立せよ」という弘法大師様のお告げが、途中から皇円大菩薩様に変わり、御霊示を頂きながら日々の御祈祷を始められました。
山籠修行の合間に過ごした幼年期
最初の頃は色んな人が集まって、勝手に酒宴を始められたそうです。すると私の母方の祖父が見かねて、せっかくの中興を邪魔してはならんと一喝されたそうです。これでようやく開山上人様は日々の御祈祷に専念出来るようになりました。
そんな中で、悩み苦しみを抱えた人をお寺で受け入れ、共同生活しながら病苦災難を乗り越える「山籠修行」を始められました。
私の母は毎日ずっと三十人以上の食事やお世話をする生活を続けてきました。ですから私は小学校一年生の時、学校の先生に「家族は何人ですか?」と聞かれて「はい!三十三人です」と答えたものでした。
私の両親は「皆を家族のように思いやり、慈しみなさい」と開山上人様に指導され、私が小学五年生まではお寺にいる全員が家族同然といった生活を送りました。
その点、弟の光祐は小学二年生から佐賀で普通の生活を送りましたから常識人として育ってくれました(一同笑)。
この幼い頃の共同生活の経験が、私が初対面の方に対しても、全然気にならないという人格形成に役立ちました。
また、ここからは個人的な話ですが、一緒に遊んだ友達の一人が大変なドモリ(吃音症)で、そのドモリがうつってしまいました。
「たちつてと」が出にくくなり、佐賀のお寺では「ただいま」も言えず、バス停で「田手まで」と言えず、切符を買えないなど苦労がありました。そんな生活を送る中で一時期大変な引っ込み思案になりました。
しかし今思えばこれも良かったと思います。なぜならば、自分をしっかり見つめる訓練が出来たからです。
感性を磨かれた少年期
佐賀での暮らしでもう一つ良かった事は、東妙寺には運慶作と伝わる釈迦如来座像と、弘法大師作と伝わる聖観音立像の、二つの国指定重要文化財(旧国宝)があった事です。
私はこの佛像を小学校六年生から高校卒業まで、毎日ずっと拝んできました。今思えば、思春期から成人までの、最も多感な時期に超一級の佛像に接して感性を磨かれていたのです。
今、京都から今村九十九大佛師さんがお参りですが、四天王を顕現する際に「持国天の首をあと一センチ長くしませんか?」などと提案が出来たのは、佐賀での暮らしの中で育まれた感性が有ったからと有難く思います。
今村大佛師さんとは、御本尊様も含めて全部で二十四体の佛像をわずか二十年余りで顕現しました。その全ては信者の皆さんからの篤い篤い信仰が元なのです。
奈良の大佛で有名な東大寺は、佛教の力で国を治めようと聖武天皇が発願されました。真言律宗の総本山西大寺の創建も、時の称徳天皇の発願で、国の力で造られました。ほとんどの大きなお寺は皇室や朝廷、貴族や豪族、大名や豪商からの財政的な支援で建てられたものです。
ところがこの蓮華院の中興の歩みは、完全に信者さん達からの祈願料、信者さんからのご奉納、それだけが元なのです。また奉納された額によって信者さんを区別するような事も、一切致しません。
中興以来の蓮華院の伝統とは
ついこの間、高野山大学の行道部の同窓会がありました。同窓会の人達は真言宗の機関紙に行事などが載りますし、『大日乃光』も送っていますから蓮華院の事は皆さん良くご存知なのです。
真言宗の僧侶で蓮華院を知らない人はあまりいません。やれダライ・ラマ法王猊下を招請したとか、五重塔を造ったとか、南大門に四天王を納めたとか、多宝塔まで造ったとか、皆さんご存知なわけです。
同窓会の仲間は他のお坊さん達から「あそこの住職は大変だろうね」と囁かれる事があるそうです。大変と言うのは資金集めが大変という事なのです。それに対して私はたいへん有難い事に、大変だと思った事が一度もありませんでした。
その全ては皇円大菩薩様の御霊示に従っての事でしたから、それなりに工夫と楽しみはありましたが、資金的な心配は全くありませんでした。御本尊様の御心に必ず従うのが、開山上人様が中興されて以来の蓮華院の伝統なのですから。(続く)
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