2024年08月28日大日乃光2410号
心を磨いて三毒を離れ、皇円大菩薩様の教えを実践しよう
八月七日の立秋の候にセミの自由研究を懐かしむ
この文を書いている頃、八月七日の「立秋」を迎えましたが、秋とは名ばかりの厳しい残暑が続く毎日でした。
ご年配の方の中には、「電気代がもったいないからクーラーをかけない」と仰る昔気質の人がおられるそうです。日本が貧しく、苦しかった時代を辛抱強く倹約されて、支えて下さった事には本当に頭が下がります。
けれどもこれを読まれた方は、何事も命あっての物種ですから、どうか辛抱よりもお命を大切に、ご自愛なさって下さい。
さて、この酷暑でお忘れかもしれませんが、今年の梅雨明けは昨年より十日ほど遅れ、うんざりするような長雨続きでした。九州では七月二十日頃、ようやく梅雨が明けると、奥之院の境内でも一斉にセミの鳴き声が聞こえてまいりました。毎年セミの声が梅雨の終わりを告げ、本格的な夏の到来を知らせてくれます。
私は小学一年生の夏休みの自由研究で、セミを題材にした経験があります。毎日セミ捕りをしたり、夜公園に行って幼虫から成虫になる様子を写真に収めたりした事が思い出に残っています。
生きとし生けるもの全てに神様を見出した日本民族の感性
私達日本人は普段、セミの鳴き声を「音」ではなく当たり前に「声」として認識していますが、これは日本人特有の感性なのだそうです。
人間の脳は右脳と左脳に分かれています。右脳は音楽や機械音、雑音等を主に処理するので「音楽脳」とも言われ、左脳は会話や言語を処理する「言語脳」とも言われているそうです。
この事は人類共通のはずですが、外国人はセミの鳴き声を右脳で処理するため、雑音としか認識出来ないのだそうです。
それに対し、日本人はセミの鳴き声を左脳で処理してきたので、会話や言語の一種として認識しているそうです。
ですから「カナカナカナ…」とヒグラシが鳴き始める頃になると、「そろそろ秋が始まるな…」などとセミの種類を聞き分け、鳴き声一つに季節の移り変わりを読み取って来たのだそうです。
それではなぜ、日本人はこういった感性を持つようになったのでしょうか?日本では佛教が伝わる前から日本固有の信仰、原始神道とも呼ばれますが、森羅万象、山や森、海や、動植物など自然界に存在する生きとし生けるもの全てに神様が宿ると考えられてきました。
そして私達は全てのものの命を大切にし、調和を大切に共存し合う事で、日本人特有の感性と文化を、長い年月をかけて身に着けて来たのだと思います。
春秋を知らなくとも一千万年命を紡いだセミ
またセミの一生を、よく七年と七日間の寿命と言い慣わします。七年間は幼虫として土の中で過ごし、ようやく地上に出て成虫になってからの命は、わずか七日間ほどしかありません。
最近のある研究発表によれば、セミも羽化後、最長で一ヶ月ほど生きられるそうですが、自然界ではやはり一週間ほどの短い寿命となるのだそうです。
鳥取県では、約一千万年前の地層から、セミの化石が見つかっているそうです。
約一千万年もの間、命を繋いできたから、私達は今こうしてセミの声を聴く事が出来るわけです。
浄土真宗の七高僧の一人とされる曇鸞大師が著された『往生論註』には、
「 蛄春秋を識らず、伊虫あに朱陽の節を知らんや」と記されています。
蛄(けいこ)とはセミの事を表します。伊虫は「この虫」、「朱陽の節」とは夏の事です。
セミは夏しか生きる事が出来ないので、春と秋を知らない。だから今が夏という事も知らないという意味です。
私達なら、夏を超えて秋になってから、あの時は夏だったのだと分かります。しかしそんな事が分からなくても、セミは朝から日が暮れるまで鳴き続けています。オスがメスに自分の居場所を知らせるために、子孫を残すためだけに、短い期間に死力を尽くします。
私達も何か願いごとや目標があるならば、過去に何があろうと、今のこの瞬間に全力を注ぐ事により、願いが成就し、目標が達成される事を教えてくれているように感じます。
地球規模で回遊し故郷の川に帰るサケの生涯
生き物の生き様が勉強になる事は、他にもたくさんあります。例えば魚のサケ(鮭)の生涯にしても、学びがあると思います。
川で生まれ、海に出て成長し、また生まれた川に戻ってくる事は皆さんよくご存知と思います。サケは比較的天敵の少ない川の上流で、冬に孵化します。それから春にかけて海へと下って行きます。
そこから北海道の北東のオホーツク海に泳ぎ着き、夏はベーリング海、冬はアメリカのアラスカ湾で過ごします。三年から五年ほど海を回遊しながら大きく成長し、やがて産卵期を控えたサケはベーリング海から自分が生まれた川を目指します。
その移動たるや、約三千キロを最短距離で帰って来るそうです。さらにサケの生涯の移動距離は一万キロから三万キロとも言われています。日本列島が約三千キロの長さですので、如何にその旅が広大なのかが分かります。
ところでサケは、どのようにして自分の生まれ故郷に戻って来れるのでしょうか。地形を記憶しているとか、太陽の方向や地磁気を感知する生体コンパスを利用しているとか、または臭覚が優れていて生まれた川の匂いを辿って帰るなど諸説ありますが、明確な答えは未だ分かっていません。
決して相まみえる事のない命懸けの親子の愛情
そんな長い旅を終え、帰ってきたサケ達には、それから最後の試練が待ち構えています。
川の上流をめざし、石や岩の間を体をぼろぼろにしながら、時には滝をも越えて産卵に適した所まで一心に遡上して行きます。しかしその多くは途中で力尽きたり、ヒグマや鳥などに捕食されてしまいます。
そして僅かに生き残ったものが生まれ故郷でパートナーを探します。パートナーが見つかると、まずメスが最後の力を振り絞り、自分の体で川底に穴を掘り卵を産み、オスが精子をかけ、外敵から守るために砂利で覆います。受精に成功すると、親のサケは力尽き、そこで命を落とします。
川の上流には元々あまり栄養分がありません。ところが産卵を終えて力尽きたサケの体が腐敗・分解して栄養分が流れ出た後に新しい命が誕生するのです。生れた稚魚は、亡き親の養分に育まれたプランクトンや水生昆虫などを食べて成長し、やがて川を下り海へと旅立つわけです。
サケが生まれた頃には親はいませんが、きっとその恩や愛情をしっかり感じとっている事でしょう。ですからどんなに遠くに旅立っても、自分が生まれた川へと間違いなく帰って来れるのだと思います。そして両親にしてもらったように、自身も未来の子供達のために命を懸けて産卵に挑むのです。
身近な生き物の世界にも佛教の教えを学んで行ける
今回はセミとサケの生き様に少しだけ触れてみました。両者に共通して感じる点は、命を繋ぐ事を使命としてそれ以外には目もくれず、時に自分の命を犠牲にしてまでも脈々と受け継がれた生き方を全うしている所です。また自分の命を全体のために役立てようとしています。
私達人間は、他の生き物に比べて大脳が発達しているために体を複雑に動かしたり、言葉を使って意思を伝えたり記憶し考える事が出来ます。私達の行動はすべて身(行動)口(言葉)意(思い)で成り立っています。佛教では三密を正しい方向に整える事を大切にしておりますが、世界を見渡せば人間同士の争いが絶えません。欲や執着、煩悩が邪魔をしているのだと思います。欲で言えば領土への欲、資源への欲、お金への欲、名誉への欲等々…。「もっともっと」となると必ず争いになります。
自然界は「弱肉強食」と言われますが、獣の王ライオンも、群れが食べきれないほどの狩りをする事は決してありません。多くの場合、実際には食物連鎖の中で互いに補い合いながら共存しています。人間も、どこかで足るを知る事が絶対に必要なのです。
心の中の佛性を説かれた弘法大師
お大師様は『般若心経秘鍵』の中で、「それ佛法遥かに非ず。心中にして即ち近し。真如外に非ず。身を棄てていずくにか求めん」と仰られています。佛様の教えは遥か遠くにあるのではなく心の近くにあり、悟りは他の世界にあるのではなく自分の心に尋ねなさい…と教えて下さっているのです。
また『性霊集』の中では、「遠くして遠からざるは、即ち我が心なり。絶えて絶えざるは、これ吾が性なり。水澄む時は、すなわち至らずして至る。鏡磨ける時はすなわち得ずして得」と著されています。
遠いようで実はそうでないもの、それは本来清浄きわまりない心なのです。離れているようでそうでないものが佛性なのです。水が澄んでいる時には底が自然と見えます。鏡が磨かれている時には自然に自分の姿を映し出す事が出来るという意味です。
私達は例外なく佛となる種をもっています。しかし水が濁っていたり、鏡が曇っていてはその種は見えてきません。濁りや曇りがまさに欲・執着・煩悩にあたります。その欲・執着・煩悩を離れる事により、佛となるための種が現れてくるのだと思います。
その種は私達のご先祖様から受け継がれたものでもあります。きれいな花を咲かせる事がご先祖様への恩返しになります。ではきれいな花を咲かせるにはどのように生活すれば良いのでしょうか?
「ちかいの詞」で心を磨き、悟りの種から花を咲かせよう
その答えを蓮華院の教えで言えば、「ちかいの詞」の実践にあたります。皆さん普段のお勤めの後、お唱えされていると思いますが、実践出来ているでしょうか?改めて普段の生活、自身の行動を振り返ってみてはいかがでしょうか。
全ての人が佛となる種をもっていますから、「佛様だったら、皇円大菩薩様だったらこんな時どうされるかな?」と考えるだけでも行動が変わってくるはずです。困っている人がいたら、見過ごすのではなく見守ったり、手を差し伸べられるはずです。悪さをする子供には、なぜいけないのか優しく諭す事が出来るはずです。
佛様、皇円大菩薩様のようにはいかなくても、考える事が大切です。それぞれがそのような意識を持つことによって、より善い世界に近づいて行くと思います。
本誌が皆さんのお手元に届く頃は、お盆を過ぎて暑さも少しおさまった処暑の候、秋のお彼岸の前になるかと思います。本院では九月十八日から五日間、貫主大僧正様が、全国の信者の皆さんのために、早朝から彼岸供養を厳修して頂きます。
また例年、蓮華院御廟では九月二十三日に秋彼岸全体供養と観月会を執り行っております。
ぜひご先祖様の御供養にお参り下さい。合掌
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