2024年12月05日大日乃光第2419号
自分一人の為の願いを越えて祈りを結集した柴燈大護摩祈祷
皆様、柴燈大護摩祈祷にようこそお参りでした。この様に真剣な祈りの集いに初めて参加したという方も、中にはおられると思います。真剣に祈られた後のお気持ちはいかがでしたでしょうか?
願い事が叶うための佛様の教え
柴燈大護摩祈祷には、皆さん方の願い事が込められたお札を祀り、護摩木を投じて祈念致します。お札や護摩木には、皆さん方が悩み苦しみから救われたいという切々たる願いが込められていました。ですからこの道場に集う多くの方々にとっては、ご自分の為の祈りだけで心が一杯だったかもしれません。
それも大事な事です。そのような必死の思いで願い事が叶うように祈り、その結果としてご自分が救われる事が信仰の第一歩となるのです。
この奥之院の開創を発願された開山上人様は、かつて、「願い事は、皆叶わねばなりません。 叶うためには、佛様の御心に適わねばなりません」と仰られました。
皆さん方の願い事は皆尊く、どの願い事も等しく叶わねばなりません。しかしそのためには一つ条件があって、佛様の御心に適うような願いであらねばならないという事です。
佛様の御心に適うとは、どういう事でしょうか。それは自分の為だけでなく、身の周りの人の為にも祈り、行動する事です。
午前中の開創法要では、真言密教で最も重要な教えの一つ、「三句の法門」について皆さんにお伝えしました。また信者の皆さん方は御縁日や凖御縁日などでお参りされる中で、日頃から佛様の教えをお聴き頂いております。
佛様の教えは人が幸せになるための教えです。佛様の御心に適うとは、その幸せになるための教えを少しでも周囲の人々にも分かち合い、伝え広めて行く事です。そして周囲の人達とともに幸せにならなければ、自分だけの幸せという事はありえないのです。
自分一人の為の祈りを越える
先ほどは柴燈大護摩の願文の中で、「願はくは、ここに集いし善男子善女人よ!己れ一人の為の祈りを越えた祈りに心を致したまえ。その祈りの和合の力によって、広くは地域社会、国家社会、国際社会に及ぶまで、等しく利益のあらん事を祈りたまえ」と奏上しました。
自分一人の為の祈りを越えた祈りに心を致す…。 今年は能登半島地震とその後の豪雨災害による犠牲者への追善供養、被災地復興と被災者安寧を、九州三十六不動霊場会の皆さんと共に祈念致しました。また三年以上に亘るウクライナ戦争や、中東情勢の円満なる早期鎮静を併せてお祈りしました。参列者の中にも自発的に同じ願いを護摩木に書かれた方がたくさんおられた事と拝察致します。
このように私達の心の幸せは、自分の身の周りの平穏無事を祈るだけで幸せになれる時代ではなくなっています。今や日本どころか世界中が繋がっています。そして一人の篤い思いが世界を覆い尽くす事も有り得る時代なのです。
私達が自分の事を知り、他人を知り、社会を知り、国家を知り、世界全体を知る。その事が今ほど求められる時代はありません。但し、私達自身が知る自分と、他人が知る自分は違います。自分が住んでいるこの地域や、また自分が思っている日本国…。これも外国人の目から見た日本という評価はまた違います。
日本人の過度な自己否定に警鐘
日本文学の世界的権威として有名なドナルド・キーン博士は、十八歳の時に『源氏物語』と出会い、日本の古典文学に魅了されたのをきっかけに研究者となり、後に世界中に日本の文学や文化を紹介する役割に尽力されました。平成二十三年の東日本大震災を機に、被災者達に最後まで寄り添いたいと日本国籍を取得され、そして日本人キーン ドナルドとして九十六歳で永眠されました。
ドナルド・キーンさんは、生前こんな事を言われました。「私には世界中に友人がいるけれども、日本人の悪口を一度も聞いたことがありません。私は世界中で日本への高い評価を聞くけれども、日本人は自分では認めようとしない。未だに多くの日本人は自分の事を正当に評価していない」と。
これを個人に置き換えたらどうなるでしょう?他人がどう思うというのではなくて、あまりにも自分を低く評価している人。そういう現状が長く続いた時に、果たしてその人の心は活き活きのびのびとなったり、また人の為に役立とうとする前向きな気持ちになれるでしょうか?
日本に希望を託した世界的な偉人
もう一人、外国人の目から見た日本の姿をお伝えしますと、皆さんよくご存知の二十世紀最高の物理学者、アインシュタイン博士がこんな事を言っています。
「日本人の道徳性、規律性というのは欧米人よりもはるかに高い。高い倫理性を持ち高い道徳性を持っている。そして世界でも有数の勤勉な精神を持っている」。「私は日本という国を残してくれた事を神に感謝したい」と、こう言われました。 そして、「世界が争いに疲れ果てた先に、日本という国が長い歴史とその道徳性から、世界に評価される時が来るであろう」と。世界の天才アインシュタインがこう言われたのです。
心に刻まれた戦争未亡人の短歌
ところが私は数十年前にこんな歌にめぐり会いました。 かくまでに醜き国となりたれば 捧げし人のただに惜しまる これは昭和元年から半世紀に亘ってさまざまな短歌を集め、取りまとめた『昭和万葉集』という歌集に収録されている、ある戦争未亡人が詠まれた短歌です。
戦中から戦後すぐにかけては、この方のようにご自分の大切なご家族を、かけがえのない夫や親や子や兄弟達を国に捧げ、亡くした人達がたくさんおられました。それなのに戦後日本社会は、あの戦争を侵略戦争と切り捨て、戦争に関わる何もかもが即「悪」であったと決めつけて、国に命を捧げた人々を「無駄死に」と蔑んで憚りませんでした。
そういった風潮に迎合した人達が戦後の混乱期に社会的経済的に成功し、やがて日本が高度成長期を迎えて世界に返り咲いた頃、世界中に驕りと慢心を露わにしていた当時にこの歌が詠まれたのです。
この歌を読んで、あの戦争をしっかり見つめる事もなく一方的に断じ、夫の犠牲を無駄死にだったかのように蔑み、貶めるような、何と醜い国になり果ててしまったのだろう…というこの方の悲痛な思いが私の心に重く響きました。
日本社会が失った名誉と尊厳
今の私達の日常的な感覚では、戦時中を描いた映画やドラマなどを観た時に、戦死のシーンやその家族の悲しむ様子を見ても、素朴に「かわいそう」と思って憐れむぐらいです。「愚かな戦争」という現代人の目線で描かれて、共感がありません。
そんな私達がすっかり忘れ去った戦前戦中の感覚から見れば、戦死という事は決して憐れむべき事ではなく、名誉な事として社会から重んじられていたのです。 そしてそれは、現代の世界に於いても戦死者の名誉は常識として厳然と重んじられているのですが、戦後教育の故か、一部の人達は相変わらず先の戦争を過度に貶め、テレビなどにもそのような非現実的で否定的な映像ばかり映されています。
これは何も先の戦争の事を全て肯定している訳ではなく、佛教者として「中道」を重んじる立場からは、今は様々な情報が偏っているように見受けられるのです。
先のドナルド・キーンさんも日本人の悪い癖として、極端から極端に奔りすぎると、帰化された後で、一人の日本人として苦言を呈されていました。
亡き父に教えられた生きる意味
私の父、先代真如大僧正様も特攻兵士の生き残りでした。私は高校時代に父に「お父さん、なぜ特攻隊に志願したの?」と聞いたのです。すると父はしばし黙りながら、 「もし自分の命を捧げて敵に少しでも損害を与え、家族や故郷が戦禍に遭うまでの時間を一日でも一刻でも先に延ばせるのなら、自分が生きた意味がある。命を捨てて行く意味があると思った」と言われたのです。
その時代、まさに両親や、故郷の未来のために、日本という国の未来を残す為に、今ここで命を捧げても悔いはないと、父はそう言いました。これは当時反抗期だった私の心に刺さりました。
人が生きて行くとはどういう意味なのか、「人は何の為に生きるのか」という疑問に対する一つの答えをそこに見出したのです。後世の為だったら自らの命を投げ出してもいいという人達が、あの時代には確かに居られたのです。これはもう五十年以上も前の話です。それからも日本社会は少しずつ変わっています。
最後に残されたのは親子の情愛
また世界的な歴史学者のアーノルド・トインビーさんは、「十二、三歳くらいまでに民族の神話を学ばなかった民族は、例外なく滅んでいる」と、こう述べたそうです。神話を持たない国は底が浅く、民族への誇りを失わせてしまいます。
戦後、日本では神話を教えなくなりました。日本人にとってのアイデンティティーの根源である皇室の事も教えなくなりました。古き良き伝統も、素晴らしい偉人の伝記も熱心に伝えなくなりました。そうやって、今まさに日本はそういう嘆かわしい時代にさしかかっているのです。
それでも何とか、地域ごとに祭りなどの伝統文化を必死に伝えようと頑張っています。 確かに日本人は神話を忘れてしまったり、学ぶ機会が殆ど無くなっているかもしれませんが、日本人の特性は親から子、子から孫へと各家庭で着実に受け継がれていると思います。
親が子供を愛する心、子が親を大切に思う心、これは人類共通の普遍的な価値です。この価値をしっかりと表現している子供達の詩碑を、この奥之院大祭の中で、午前中に除幕入魂致しました。是非それを後でじっくりご覧頂きたいと思います。
親が子を思う気持ちに宗教が手を添えて支えながら、人間の情愛を子から孫、孫からひ孫へと引き継ぐ精神文化というものは、民族の歴史にしっかりと命を与えていくのです。
皆さんが真剣に祈ったその祈り、自分の為だけの祈りを越えたこの祈りの力が、皆さん達の子や孫達にしっかり伝わりますように、是非これを家庭で一歩、二歩と実践して頂きたいと念じております。
霊場巡りの旅も一種の心理療法
本当の慈悲の中には一見怒っているように見える場合もあります。それがまさに不動明王です。
九州というこの一つの島の中に満ちた、まさに憤怒の祈り、憤怒の怒り、憤怒の慈悲。その不動明王の功徳を九州全体の三十六ヶ寺と番外二ヶ寺でそれぞれ受持ち、九州全土を巡拝して頂くという九州三十六不動霊場会。
今年はその四十周年という記念すべき年に当たります。他にも四国には八十八ヶ所お遍路があり、近畿には三十六観音霊場と、またそれぞれミニ霊場というのも日本各地にあります。 こういう祈りの連鎖、祈りの輪。その中で人は旅をし、自分を見つめ、そして未来の為に自分は何が出来るんだろうと、過去を振り返り、そして未来を作り出していく。
この過去を振り返り未来を作り出していくという事は、一種の心理療法です。蓮華院でも「内観」という心理療法を四十年近く続けております。それによって、沢山の人が人生を大転換していかれます。
反省から始まる未来への祈り
それと同じように、私達はそれぞれに自己をしっかり反省し、そして未来の為に自分には何が出来るのだろうかと日々考え、行動する。そして未来に向けて祈ります。
この過去を反省し、未来の為に生きるという事は、まさに宗教や信仰のとても大事な要素になっていると私は思います。今日のお参りを心に、どうかそういう事をそれぞれの家庭で実践して下さい。 また親や祖父母、ご先祖様を供養し、それぞれのご家庭でお佛壇にお参りする中で、そういう思いを日々重ねて行って頂きたいと切に念じております。
本日は皆さん本当に真剣に拝んで頂きまして、誠に有難うございました。合掌
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