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大日乃光






大日乃光

2025年01月17日大日乃光第2422号
前向きで明るい未来に向けて密教的な世界観で歩んで行こう

真言密教だけで唱える「五大願」

十二月は、二十三日の年内最後の準御縁日法要の日を、八千枚護摩の結願の日と定めて、奥之院の護摩堂で行を修しておりました。ですからその十日前の十三日の御縁日は、八千枚護摩の中日で、行のちょうど折り返し点という事もあって、非常に充実した時期でもありました。

毎座毎座、二十一座きちんとした作法と瞑想を修した上で護摩を焚きました。その行法は、様々な瞑想の中でまず自身を清め、道場を清め、そして佛様にお越し頂いて様々なおもてなしをするのです。 これらを総称して「供養法」と言います。

その供養法の前行の中で、佛様をお迎えするための準備として必ず唱える言葉がいくつかあります。 その代表的な一つが「五大願」です。 五つの大きな願いという事ですが、これは真言密教だけで唱える誓いの言葉です。

密教以前の大乗佛教の「四弘誓願」

密教が出現する以前の佛教では、これを「四弘誓願」と言っていました。 つまり四つの誓いだったのです。

この「四弘誓願」の方から順に説明しますと、一番目の「衆生無辺誓願度」は、菩薩である私達修行者全員が誓う事柄です。 皆さん達も、信者という立場ではあられるけれども、菩薩様の歩みに従って、自分の生き方をより良くして行きたいと願って信仰している人達も皆、菩薩様なのです。

この菩薩の四つの誓いは、悩み苦しんでいる沢山の困っている人達を、私は誓ってお救いする事を願う。お助けする事を誓います、という意味なのです。 目の前に困っている人がいたら、「どうかされましたか?」と声をかける。そういう行動をするという誓いを立てるのです。

そして二番目が「煩悩無量誓願断」。 人間は悪しき欲望や願望をたくさん持っているけれども、私はこれを一つ一つ断ち切って行く、という誓いを立てます。 交通ルールを守るとか、家庭内での様々な約束を守るとか、佛教的な意味で言えば、欲をかかないとか、煩悩を断ち切っていきますとか、そういう誓いを立てるわけです。

三番目は「法門無尽誓願智」。 佛教の教えというのは「八万四千の法門」と言われる位に沢山あるけれども、私はそれを一つ一つ学んで行きます。知って行きますという誓いを立てる。

そして四番目が「佛道無上誓願成」。 覚りへの道は、限りなく遥か遠くへと続く道ではあるけれども、私はそれを一歩一歩進み、成し遂げて行くという誓いを立てます。

以上が大乗佛教では、一般的にどの宗派でも唱えている「四弘誓願」です。 無限に努力し続けますという、どれもとても大切で、とても大変な誓いなわけです。

煩悩の否定ではない深化・転換

この「四弘誓願」が時代を経て、さらに発展していく中で、「五大願」というものに変容しました。深まった、深化したとも言えると思います。

「五大願」の一番目の「衆生無辺誓願度」の部分は、「四弘誓願」と全く同じです。 これはまさに、皇円大菩薩様の願いという事もできます。 自分を頼ってくる人全てに、私は力になりお助けし、救って行こうという。 そのために静岡県の桜ヶ池で七百六十年という長い長い修行に入られたわけです。 この最初の誓いの部分は、密教と一般の大乗佛教との間に違いはありません。

二番目の「福智無辺誓願集」になると、非常に密教独特な誓いになっていきます。 「四弘誓願」では、ここで「煩悩無量誓願断」と、煩悩を断ち切って行くという、要するにマイナスを減らして行く誓いを立てます。 ですが、実際にはそれではなかなか追いつかない。たとえ一生を修行に費やし尽くしても、煩悩を尽く滅する事は難しい。 佛道の修行者達が延々試行錯誤をして、苦しみもがいて、そして遂に大転換して、いよいよ密教の段階へと至ったのです。

それは、それまでとは全く逆の向きに、ガラッと大転換を果たしたのです。 それは、欠点をなくして行こうとするのではなく、長所を一つでも多く発見し、長所を少しでも伸ばして行こうとするものでした。 長所やそして様々な知識、智慧、技能等々。そういった良きものを集約し、増やして行こうという考え方に大転換したのです。

未来へと遺された肯定的な言葉

煩悩を滅する修行をする、短所をなくして行こうとするよりも、密教では長所をより多く集めようとしてきたのです。 これは佛教内の大変革だったのです。

密教の「五大願」は、佛教の中の大発明と言える程の大きな転換点となりました。 例えば技術革新や社会変革などの様々な面で大発展している現代の日本の状況は、この「福智無辺誓願集」の集大成であると言っても過言ではないのです。

戦後から今日に至るまで、父祖の時代から、さらにもっともっと昔から、先人達が連綿と良きものを集め、そしてより深く智慧を探求・研鑽してきた積み重ねの結果なのです。 それを成し遂げた原動力が「福智無辺誓願集」という言葉に集約されているのです。

まさにここに密教の特色が良く現れているのです。 これは未来の宗教と言うか、未来の多くの人達に贈る言葉。これからの人類に贈る言葉として、こういう言葉をどなたか偉い方々が遺されたのです。

生きる力が消耗する欠点指摘

密教以前の、大乗佛教の「四弘誓願」のやり方では、どうしても限界がある。 欠点を無くそうと、煩悩を断ち切ろうとする努力をいくら積み重ねても、人間である以上、煩悩は決して断ち切れないという厳しい現実。

それに直面した時に、失望感や無力感、絶望感に陥らずに、どうやったらその先に辿り着けるのか。 実際に朝起きてから寝るまでの間の、自分の一日の生活を思い起してみて下さい。 「どこそこで欲をかいたな」「自分をよく見せようと嘘をついたな」「おべっかをつかったな」「必要以上にゴマを擦ったな」など一つや二つはあると思います。

「いや、私はそういう事は一切ありません」 と言えるような人は、よほど出来た人ですが、実際にはめったにおられません。 逆にひたすら自分の悪い所、マイナス面を打ち消そうとして根を詰め過ぎたり、どちらかと言えば潔癖で生真面目であればあるほど、自分の事を駄目だと否定して追い詰めるばかりになり、神経が衰弱してしまいます。 そのまま自己否定が過ぎると、エネルギーが尽きて力が湧いてきません。

また私の母の世代や私の時代までは、嫁姑の問題が根強くて、姑さんからチクチク言われた事等の、家族内の人間関係でのお悩み相談などがたくさんありました。 これぞまさに欠点指摘型でした。 現在では核家族化が進んで、そもそも嫁姑がほとんど一緒に暮らさなくなりましたから、今ではそんな話は珍しくなりました。 ですから皆さんの中には、自分が昔受けたような仕打ちを、息子の嫁に同じ様に繰り返している人は、今一人もいないと思います。

長所を前向きに伸ばす世界観

密教的な発想では、例えば「おべっか」を使ってしまったとしても、相手に喜んで頂けるような良い言葉を相手に投げかけた、という風に大きく転換して考えて行くわけです。

これは家庭内に於ける子供の教育についても同じ事が言えると思います。 子供の欠点をチクチク指摘して、これはダメ、あれもダメと繰り返し言うと子供はのびのび育ちません。 これは誰にでもわかります。

子供の持っている良い所を見つけて、そこを褒め上げて伸ばしてあげる。 積極的に、前向きに、明るくおおらかに。 そうすると、欠点が自然にカバーされて、長所へと転じて行くわけです。 このように欠点を指摘するのではなく、長所を伸ばすのが密教的な考え方であり、人生そのものを明るく大転換するのが密教的な世界観と言えます。

佛教では長年、なかなかこの転換が出来ませんでした。 この大転換を成し遂げたのが真言密教という世界。佛教における最先端の思想でした。

佛教が日本に入ってきてから国内でも専門的に色々窮められて、浄土宗や禅宗、日蓮宗などの鎌倉佛教と呼ばれる宗派が現れます。 けれども実際には、その当時における世界最先端の佛教は、間違いなく密教だったのです。 それに連なる私達真言密教の修行者だけが、この「五大願」を唱えているのです。

供養と菩提への厳粛な誓い もう一つ、「四弘誓願」にはなくて、「五大願」にあるのが四番目の「如来無辺誓願事」です。「事」は、お仕えするという意味です。 佛様は無数におられますが、私はその方々に真剣にお仕えし続けますという意味です。 これは密教以外の顕教にはないのです。 ですから密教は、どちらかと言えば「供養の宗教」であると言えるのかもしれません。

「供養法」という修法を確立して、様々な佛・菩薩・明王・天部に対し、様々な供物を捧げて供養する方法が全て確立されている。 これはすごいことです。 これが曼荼羅を元に、まさに無限の佛様にお仕えするという、密教として必然的に現れて来た考え方であると思います。

また五番目の「菩提無上誓願證」は、菩提は無上であるけれども、これを私は證(証)します=悟りを開くように努力しますという無限の努力の宣言です。 この五つの願いは、それぞれがとても重みのある誓願です。本来なら、決して気軽に簡単に唱えられるような言葉ではないのです。 ですからこの「五大願」を唱える度に、私はとても厳粛な心持ちになります。

御本尊様への内観となった修行

そしてこの言葉を唱える事自体が、自分をふり返る事にも繋がって行くのです。 つまり佛様に対し、お恵みや、して頂いた御恩を振り返るという、一種の「内観」にもなっているのです。

私が御本尊皇円大菩薩様に対してお捧げして来た情念と言うか、お捧げした気持ちや思い…。皇円大菩薩様の衆生済度の御誓願や、そのお心の一端に少しでも触れようと行じてきた様々な修行…。 しかしそういう思いで行じれば行じるほど、逆に皇円大菩薩様の方から自分がいかに守られているか、佛様から救われているのかを思い知らされます。

例えばこの五年間、医師にさえも奇蹟と思われた難病の克服は、御本尊様のお導きとご守護の一つの例です。 その自分が救われている現実に比べたら、私のした事は、まだまだ全然大した事ではないと実感しております。 こういった風に、自分自身の事を振り返る。 その最大のものが、実は「五大願」には込められていると私は確信しているのです。

「五大願」を心にとどめて、密教的な生活を送ろう

「五大願」の中で、特に二番目の「福智無辺誓願集」と四番目の「如来無辺誓願事」には真言密教独特な発想がよく表れています。 他の宗派には、これが無いのです。 ですからこの二つが他の宗派の「四弘誓願」と、真言密教の「五大願」の間の明確な違いなのです。

皆さんぜひ「五大願」を書き留めて、憶えてみて、自分の心にとどめて下さい。 少しでも周りに困った人がいたら、手を差し延べて下さい。ボランティア活動をしている人がいたら、応援して下さい。 そういう風に日常生活の中に転じて、生活の中で活かして行って下さい。 それが密教的な生活になり、信者さんの模範にもなると思います。

今回の話は今までにも度々お伝えした事がありますが、この「五大願」の言葉の持っている価値を、自分の中でしっかりと咀嚼しながら味わって、どうか日々の生活の中で活かして頂きたいと、切に願っております。 合掌 (令和六年十二月十三日御法話より)




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