第32集 熊本MM
奇跡が起こった
考えつくあらゆる治療を拒むパーキンソン病の苦しみ
私は、平成7年4月、熊本機能病院において「パーキンソン病」と診断されました。この病気は、脳の黒質が変性し、この神経から分泌されるドーパミンが減少する病気です。手足が震え、筋肉が固まり、身体の動きが鈍くなり、体のバランスがとれなくなる難病です。
毎日気分がすぐれず、仕事への意欲が湧かず、憂鬱でした。「パーキンソン病」と診断されるまでには一年かかりました。それまでは熊本市内のあらゆる病院を廻りました。校医の病院、友人の病院にも行きました。針、灸、マッサージ、テルミー、整体などの体質改善の施設にも行きました。磁気温泉、泡温泉、薬湯など、温泉巡りもしました。色々なご霊験が伝え聞かれる社寺、佛閣へのお参りもしました。
一年後、病名が明らかになり、家族、兄弟が集まって悲嘆に暮れました。その時、妻の喜美子が話し始めました。「蓮華院様に先祖供養と、病気の全快祈祷をお願いしよう」と。みんなが黙っていると、「蓮華院様を信じ頼らないで、他に頼れるものがありますか」と、強い信念で説いてきました。妻の篤く揺るぎない信仰心、私も妻の信仰の深さに心をうたれました。その通りだと思いました。
妻は師範学校を卒業して教職につきましたが、20歳で母を亡くし、校長を退職した父親と、六年生の弟の面倒を見ていました。その頃親子とも結核にかかり、枕を並べて休んだ事があるとも聞きました。蓮華院さんには、その頃お世話になったと申しております。
夏休みに先代貫主の真如大僧正様の御説教を聴き、お籠もりをさせていただいた思い出を、よく聞かせてくれます。当時微熱が続き、ラッセルの音が聞こえてきましたが、それにはおかまいなしに「南無皇円大菩薩、南無皇円大菩薩」とご宝号を口にしながら、草取りや、それぞれの作業に頑張りました。お陰さまで結核は良くなり、教職に復帰することもできました。
「子供の詩コンクール」を通した真如大僧正様とのご縁
実は私も、先代貫主真如大僧正様にはご縁がありました。当時、熊本県の研究会の会長をしていましたので、「親を大切にする子どもを育てる会」で、「子どもの詩のコンクール」の審査の総括を仰せつかりました。
子どもの詩を読んでいると、「念ずれば花開く」ということがよく分かります。それはおとうさん、おかあさんの苦労や愛の形や姿を見つめて、自分の思いや願いを素直に表現していくことと、目的に向かって努力することであろうと思います。
蓮華院賞・坂村真民賞・KAB賞の特別三賞の除幕式で、歴代横綱と一緒に詩碑除幕をすることは、子どもにとってこの上ない喜びであり、また思い出に残ることだと思います。真如大僧正様は、子どもがこころ豊かに育つことを切に願っておられました。
信仰と医学の力で治しなさい
さて、そこで早速、貫主様に先祖供養と、全快祈祷をお願いしました。そして、特別指導を頼みました。貫主様は私の話をお聞きになって、「人間には目に見える氷山の一角と、目に見えない大きな部分がある。目に見えない部分にいろいろな現象が作用している。病気は、しばらくかかるが。本人の篤いあつい信仰と、医学の力で治していきなさい」と、諭されました。
しかし私にはさらに、二つの難題が襲いかかりました。一つは耳下腺腫瘍です。二つ目はパーキンソン病の急激な進行です。
ご利益で逃れた予想外の難病
耳下腺腫瘍は、私の気づかぬ内に急速に膨らんでおり、気づいたときには、耳下に小さな卵ほどに腫れ上がっていたのです。直ぐに国立病院に行きました。耳鼻科の先生は、私の耳下の腫れ物に触るや、「耳下腺腫瘍である。こんなになるまでずいぶん時間がかかっている」と厳しく言われました。
色々な検査を受けました。そして二週間後、癌の検査を受けた結果、悪性の癌ではないと言われました。主治医の先生からは、「宮田さんは、うまく難を逃れましたね」と、言われました。これは蓮華院さんのお陰だと、早速お礼の手紙を書きました。
進行するパーキンソン病の症状
もう一つはパーキンソン病の急激な進行です。急にふるえが大きくなり、筋肉の固さが増して関節の動きがぎこちなくなりました。全身の動きが鈍くなり、よく転ぶようになりました。二ヶ月入院しました。しかし体の動きは回復しません。寝たきりで、トイレにも行けませんでした。
主治医はそれとなく、脳深部刺激療法の、熊本医大の医師を紹介されました。私も薬の治療では限界にきていると悟り、人に迷惑をかけてはいけないと、手術を決意しました。この治療は、自分の意志に反して手足が震えてしまう「振戦」という不随意運動を引き起こしている脳の深部に対して、直接に外科手術を行うことです。
8時間の大手術後の奇跡
1月6日に入院し、1月14日に8時間に及ぶ脳外科の手術を受けました。オペ室を出る時、待っていた妻が、「おとうさん分かるね」と言いました。観察室で安静にしている時に、次第に麻酔から覚めていきました。喉の乾きを覚えながら、身動きも出来ず、声も出ませんでした。
翌日、自分のベッドに帰って目が覚めたら、震えていた手が震えなくなっていました。関節や筋肉が緩やかに曲がり、自然に歩けるようになっていました。主治医の教授や、医師やスタッフが、にこにこして見ておられました。
そして、手術前と手術後の動作の検査を受けました。手首の回転の検査、歩く姿勢、立ち上がりの検査など、詳しく調べられました。その結果、普段の生活に支障のないくらい、動きが良くなっていることが分かりました。やがて家族が来たので、歩いて見せたら驚いていました。見舞いに来た友達もびっくりしていました。
私は「奇跡が起こった…!」と、思わず口ずさみました。「南無皇円大菩薩」「南無皇円大菩薩」「南無皇円大菩薩」。皇円大菩薩様のお助けと、医学の力で奇跡が起こったと信じました。先祖の方々に対し、お陰様で難を逃れることが出来ましたと感謝しました。
禍一転して福来たる
そして、3月の中頃に、教育委員会から電話がかかりました。私に平成22年度の叙勲の内示が来ているという内容です。5月11日に、国立劇場において、叙勲の伝達と、皇居において天皇陛下の拝謁が行われるとのことです。思いもよらないことです。
長年にわたる国家社会への奉仕と、地域社会への貢献をした賜といわれますが、私にとりましては、38年間小学校の教育に携わったというだけの平凡な暮らしだったと反省をしています。
このことは、蓮華院のみなさまのお助けがあり、私達の先祖の方々の陰からのお力添えがあったことと、感謝しました。勿論、先輩、友人、親戚の皆さんの支えもあったからだと思います。私独りでは、このような最高の栄誉である叙勲、褒賞をいただくことは出来ません。
私は、春の叙勲を自分の足で立って、歩いて頂くことが出来るという幸せを噛みしめました。皇円第菩薩様は、このことを知っておられたのでしょうか。私は重なる幸せに、身震いが止まりませんでした。この幸運を直ぐに蓮華院さんに報告しました。「よかったですね。おめでとうございます」と、お祝いを述べて下さいました。
38年間の地道な奉職と奉仕が最高の栄誉で報われた瞬間
5月11日の朝、家内と一緒に叙勲の伝達会場である国立競技場に向かいました。雨が降っていました。受付には長蛇の列が出来ていました。伝達式では、受賞者への勲章伝達が文部科学大臣から次のようになされました。「日本国天皇は、瑞宝双光章を授与する。皇居において璽を押させる」緊張が頂点に達しました。気持ちが昂ったまま、バスで皇居に向かいました。
豊明殿で拝謁の時を待ちました。3時16分、侍従長の先導で天皇陛下がお見えになりました。天皇陛下が壇上に立たれて、代表の挨拶をお受けになりました。この後に、陛下のお言葉がございました。「長い間人々のために、また国のために尽くしてくれてありがとう。今後は、体を大切にして下さい」
この後に、全員に表敬の意をされながら、受賞者の周りを廻られました。そして、杖をついて立っていたわたしの前においでになり、「大丈夫ですか?」と言葉をかけてくださいました。「ありがとうございます」とお礼を申し上げました。春秋の間のたまり場で、記念撮影が行われました。
伝達式と拝謁を終えて、バスの中で今日一日の忙しかったことが思い返されました。奇跡的に病気が克服されて、春の叙勲を無事に受賞出来たこと。奇しくも、天皇陛下にお言葉をかけて頂いたこと。先祖の方々に、いい報告が出来たこと。
すべて、蓮華院さんのお陰です。貫主様のお力添えの賜と、しみじみ思ったこと。南無皇円大菩薩様、南無皇円大菩薩様と、感謝しながら歩いたこと。医学の力に感謝することなどを粛々と考えながら歩きました。そんな思いを載せながら、バスは東京駅へと向かいました。合掌
下記をクリック下さい。貫主様(住職)の御法話が聞けます。
http://www.youtube.com/playlist?list=PL42608D5250571D84