第19集 福岡県JM
長女が戴いたご利益
皆さん今晩は私は貫主様のおゆるしを得て、今年三月に得度させて頂いた者です。私には娘が二人おりまして、今日は長女のことをお話しさせて頂きます。少し回りくどいと思いますがお聞き下さい。
この子は絵をかく事が好きで美術学校を目指しましたが型通りの勉強で受かる訳がありません。東京で予備校に入りました。処がこの予備校に同じ北九州出身の彼がいたのです。
翌年の春、娘は念願の多摩美大に合格、芸大一筋の彼は三度目の不合格でした。一年遅れで芸大生となった彼は上野、娘は八王子と全く離れた学生生活でしたが、同郷の誼でしょうか、お付き合いは切れない様子でした。
同じ頃私にも出会いがありました。転勤して行った先に蓮華院さんの信者さんがおられたのです。一から教わりました。一年に一度か二年に一度大祭に二人でお詣りさせて頂きました。
ある時、余りにも信者の皆さんで一杯ですし詰めでありました。御開山大僧正様が「仕方んなか、ここに上がりなさい」と偶然にも私達十人か二十人を脇内陣に座らせて下さいました。何にも解らない身にもここは普通では上がれない場所、何と勿体ない事と感激した事を思い出します。
お寺に上がるのはたまにでございますが先祖供養は毎月欠かさずお願い致しました。給料日の昼休みは大忙し、現金封筒を握って郵便局迄走ります。勿論娘の彼の家の分も加わってます。
娘は無事卒業して北九州で中学の美術教師、一年遅れで彼も卒業しました。二人揃って彼の家に行き結婚させて欲しいと申しました処お母さんがさっと席を立って行ったそうです。ドキッとしますよね。やがてもどって見えたその手には暦が握られていてその場で大安を探して日取り決定しました。これを聞きまして、さすがご先祖さん粋な事なさるわあと又々感激致しました。
こうして二人は結婚しました。ここから苦労が始まります。彼は大学院で勉強を続けています。マンション代は私が応援するとして、あとは二人でバイトです。
あちこちの団地で集会所を借りてお絵かき教室です。終わった子から隣の部屋でお習字教室、習字は一応娘に仕込んでありましたので役に立った様です。なんとか二年間、色々な方に助けられながらやり通しました。お婿さんは就職したとは申せ最初は大学の非常勤講師、雀の涙ほどの給料でバイトは止められませんでした。
そのうち常勤講師となって少しはましになり長男を授かりましたが貧しさは卒業できません。子供も外に出て遊ぶようになりましたが友達がいません。子供がいないのではなくて皆さん習い事のはしごで、いわゆる教育ママが出現してたのです。うちもせめて水泳教室ぐらいは行かせたいんだけどね。とお預けのままでした。
やがて次男が授かりました。これが並じゃなかったんですね。未熟児だったんです。予定より三ヶ月早く前置胎盤が原因で大出血帝王切開で取り出された子は1150gの小ちゃな子でした。即未熟児センターへ搬送され言われた言葉が、「今晩が山です。」「まさか?」「何とか一晩乗り越えて翌日、気になる処があるので明日、脳を開いて見ます。」「うそでしょ?」 その都度電話に飛びついて蓮華院様にお願いです。
ある時は、「すみませんが赤ん坊が呼吸困難です。拝んで貰って下さい。」「あのう、うちは美容院ですけど。」「ご免なさい。」あまりあわてていたので市外局番を間違っていたようです。
こうして一日一日を乗り切らして頂き、体を傷つけることなく三ヶ月程で退院しました。
その後、毎月一回検診に通います。娘の電話によりますと病院で同期生の赤ん坊たちはみんな何かの障害が残っているのに何もないのはうちの子だけよと言う事です。医学の進歩は凄いけどみ佛様もすごいと感謝いたしました。
しかしこの子は勉強があまり好きではありませんでした。いいじゃないの元気なんだから。料理の専門学校に行って現在はイタリア料理の店でフライパンを握っています。ちなみに長男の方はのんびりと四年生大学を今五年生をやっています。サマザマでございますね。
父親の方ですがそのうち助教授となりマンション代の応援も終わりました。一戸建の借家に住んでいましたが手狭なので何とか広い家が欲しくなった訳です。 中古の家を買って二階にアトリエをつけ足すとの事でした。もう決めてしまったんだけどお尋ねをして下さいと頼まれました。
小高い丘の上の道路のつき当たりが平将門さんをお祭りしてある将門神社がその道路の両脇に十軒ほどの家が建っていてその中の一軒というのです。お尋ねの結果、その十軒の中でも最悪で、いわゆる戦で死んだ人が一番多く埋まっているとの事です。近くに平将門首洗いの井戸もあるそうです。
それからはお金の都合のつく限りお供養をお願いしようと決め、他人の霊の供養を始めて戴きました。
うっそうと茂った庭木を切り払って家の改築を始めますと、近所の人から話が伝わってきます。最初に家を建てた人は奥さんが男を作って出て行って売り払われ、次に入った人も奥さんが別居してしまって旦那の存在感がなく、息子の暴走族仲間のたまり場となって通称お化け屋敷と呼ばれていたので、今度の人はどうなるかと興味深々で近所の人たちは眺めている、との事でした。
案の定、二階の工事は捗りません。まず床が水平にならずボールが止まらずに転げる。窓枠をはめこめばガラス窓が動かない。大工さんは梯子から落ちて仕事は中断、とに角大変でした。
ようやく引っ越して住みはじめましたが家族は体調がすぐれません。特に小学校三年の長男はアトピーがひどくなり髪の毛からは汁が垂れ体はかきむしって血だらけ夏休みなのに風呂から上がって寒いと泣く。毎日の様に蓮華院様に電話でお願いする有り様でした。
この地獄の様なありさまに私も必死でした。時間のゆるす限り皇円大菩薩様の前に坐り五十巻百巻と般若心経を唱えました。一万三千巻数えましたがあとは数えるのを止めました。一万巻程お唱えするのに半年位かかりました。お陰様で少しずつ落ち着いて参りました。
そのうちこの絵描きさん、なんとか大賞とかを頂き忙しくなって来ました。勤めも引いてテンペラ画家として頑張っております。絵を描いて暮らしていくのはとても大変なのですが何とか人並みの生活をさせて頂いております。
娘はお母さん有難うと申します。「でも違うよ。これは全部皇円大菩薩様、御開山大僧正様、真如大僧正様のおかげなのですよ。」と申しております。つたない信仰体験の一部をお話しさせて頂きました。ご静聴有難うございました。合掌