第15集 寺務所主事 松本英信
川崎病と信仰のバトン
平成14年9月
先だって関東布教の座談会で、私達にとってとても大切な問題が話題に止まりましたので、それをご紹介します。
ある横浜の信者さんが、ご自身は親の代から長い事信仰されていて、その中で奥之院での内観も経験されるなど、とても熱心な方なのです。ところが、娘さんだけはどうしても信仰に導くことが出来ない、どうしたらよろしいのでしょう。と、貫主様に尋ねられました。それに対して貫主様は、「それこそが、これからのあなたの修行です」と、お答えになられました。
その次に、初めて東京布教にお参りされた若いお母さんが話されました。その方のご主人は、以前から六月や十一月の大祭のたびにお手伝いに来られる熱心な信者さんだったのですが、先の娘さんの場合と同じように、その方の奥さんは信仰に縁があってもなかなか入れなかったそうです。
そんな中で昨年末、一粒種のかわいい息子さんが難病と言われる川崎病にかかられました。ご主人は、早速貫主様に御祈祷をお願いされると、奥さんの方も真剣に佛様に向かうようになってこられたのだそうです。当日は元気になった息子さんもご一緒にお参りされていました。貫主様はその息子さんに歩み寄られて、「私はね、ずっとあなたのことを拝んできたのだよ。」と、とても嬉しそうにされていました。このお二人は、たまたま続けてお世話になりましたが、私には前の方の問いに対しての答えであるように感じました。
寺務所でも信者さんからのお手紙やお電話をお受けする中で、時々信仰に対する家族の無理解で悩んでいるという事を伺います。私の場合はどうだったかと言いますと、祖母が信仰深い人で、その影響でか、母も父と結婚してから家に佛様を祀り、信仰していました。ですから、私も兄も小さい頃から疑問に思うことなく、お佛飯やお水をお供えし、お経を唱えてお参りをしていました。今考えてみますと、幼い頃のその習慣のお陰といいますか、それがあったから今こうして僧侶としていることが出来るのではないかと思います。もし、それがなかったら自分が今何をしていたか想像がつきません。
こういう話を聞いたことがあります。佛様と私達との関係を親子にたとえたら、佛様との縁を結ぶことは、長い間家を出て親の財産を食いつぶしていた放蕩(ほうとう)息子が、家に帰ってくるようなもの。人の親がそうである様に、神佛は慈悲の御心で私達を迎え入れて下さり、その財産を与えて下さると。キリストの教えの中にも同じようなたとえがあります。
「私はいつでも戸の前に立っている。あなたが 戸を開けるなら、家の中であなたと食事をしよう。」と。
また、「人類皆兄弟」と、どなたかの言葉にありますが、大いなる命、佛様の御心から見たら、本当にその通りなのでしょう。親子の関係、家庭での教育が、人が一人前の社会人になる為には必要不可欠なものです。たとえ親がいなくても、その代わりになる人が実の親以上の愛情をかけてくれることがあります。
しかし、現在の人間社会では、親子の隔絶、無関心、親が子に子が親に対して行う目を覆いたくなる様な出来事が度々起こります。その問題を解決しようと、カウンセリングを受け、児童相談所に行き、とうとう警察のご厄介にまでなっても、思うようにはなりません。何かよい方法はないのでしょうか? 私は信仰の中に、その病を癒す一つの特効薬があるように感じます。
無上甚深微妙法 百千萬劫難遭遇
我今見聞特受持 願解如来真実義
佛教人として、朝夕にお唱え致しますが、様々な縁の中に生きている中で、佛様に会うこと、佛縁を結ぶことは開経偈(かいきょうげ)にあるように、何よりも得難いものではないでしょうか。大乗佛教の祖であり、真言宗の八祖の一人でもある龍樹菩薩の言葉に、
「佛法の大海は、信をもって能入となす。」と。
私はこの言葉を、自分の小さな計らいや考えをまず捨てて、体ごと佛法の中に入って行くことではと思います。今こうして皇円大菩薩様を信仰している者にとって、佛様とのご縁を繋ぐこと、信仰を子や孫、そして次の世代にしっかりとバトンを渡していくことは、とても大切な事に思われます。人間の財産と違って、ご本尊皇円大菩薩様のご霊力・功徳力は無限なのですから、安心してこの道を歩いて行きたいものです。合掌