7年前に、初めて集中内観を体験した私は、すっかり内観ファンになりました。その後、仕事上や家庭で、どうしたら良いか迷ったときに、その都度、集中内観を受けて進む方向を導いて頂きました。
しかし、日常内観となるとなかなか続ける事が、できませんでした。そこで、今回Eメール内観をしばらく続ける事によって、少しでも日常内観の習慣付けになればと思い、受けさせて頂く事にしました。
身に付くために、私にはもう少し日数が必要なようですし、毎日続けるというのは思ったよりたいへんで、結局毎日はできませんでしたが、それでも、やっとではあったけれど、やってよかったなあというのが、正直な気持ちです。
自分のまわりに起きてくる事が、今までと少し違う気がするのです。自分にとっては難しいと思われる事や、苦手で手を出したくない事などが、割合スムーズに事が運ばれていく、展開していく、もしくは、良い結果がでている感じがしております。自分の気持ちが以前より、安定している感じもあります。
本来は、1日内観をしてその結果をメールする、ということですが私の場合は、パソコンに向かって内容を打っている時だけ、内観をするというような、たいへん不真面目なものでした。それも、三日あけそうになると、大山先生からご心配いただいたメールが届き、励まされて又続けるというような、そんな感じで進んでいきました。
しかし、母や祖母に対する内観をしているときは、本当にこみ上げてくるものが毎日のようにありました。特に、私が11歳の時に亡くなってしまった母の内観をしていて思い出した事は、小さい頃農作業をしていた母の手は、ひびやあかぎれでいつも荒れていてふしくれだっていたなあ、ということでした。
そんな母の手を私はいやだな、はずかしいなと思っていた事。友達のお母さんのような、きれいな手でいてほしいと思っていた事などが、思い出されました。母は、私たちのために、凍てつく冬の寒い日にも、たらいに水を汲んで洗濯物をすすいでいました。干した洗濯物がその場でカチカチに凍ってしまうような寒い朝も、休む事なく洗濯をしてくれていたこと、その時触った母の手は、氷のように冷たかった事などが思い出されました。
又、農家に嫁いで、朝も暗いうちから、家族の誰よりも早く起きて、朝食の準備をしてくださったり、毎日の農作業で母の手はきれいになっている間がなかったんだ、その結果があの母のひびやあかぎれで荒れた手であった。そう気付いたときに、涙があふれてきました。
それは、全部私たちのためにしてくださっていたことで、そんな尊い尊い母の手であったにもかかわらず、いやだと思っていた自分。恥ずかしいのは、母の手ではなくてそんなふうにしか考えられなかった自分の心であったと気付きました。
星の王子様の「本当に大事な事は、目には見えないんだよ」という言葉をしみじみ思い出しました。
又、自分の心配性が原因で、家族みんなと関係をこじらせたということが、家族一人一人に対する内観をして、はっきりわかりました。私は、自分の心配が高じると、相手を責めてしまうのです。それで、家族中に迷惑をかけていながら、その自覚が希薄だったということです。
それに対して、どうしたら良いか、それは、心配は自分の事であって、自分で処理するものであること。自分がその心配に耐えきれないからといって、相手を自分の思うように動かそうとする事は、間違いである事。又、小さなつまらない事をくよくよ考えないで、自分のできる、小さな良い事を少しづつでもやって生きていけばそれで、良いのだということが、大山先生の助言を得て、やっとわかることが出来ました。ありがとうございました。
祖母に対する内観では、母のなくなった後、70歳だった祖母は、ない力を振り絞って、私たちをやっとの思いで、育ててくださった事、その命というものは、自分だけのものではないこと。又、その祖母の生きざまを振り返った時、ありがたくてありがたくて、涙が止まりませんでした。どんなに感謝しても、足りないと思いました。大山先生に、自分も次の世代に、順送りで恩返ししていくしかないし、祖母と似たような生きざまが少しでもできれば、それが恩返しになるのではないでしょうか、と教えて頂きました。ありがとうございました。
最後に、息子に対して内観していたときに息子に言われた言葉から、人が話す事のなかには、少なからず真実が隠されていることも多いということもわかりました。
だから、耳痛い言葉でも、反発したりするのではなく、耳を、心を傾けて聞いてみる、ということがとても大事なことであるということ。自分で自分は見えないけれど、他人のことは、とてもよく見えるということは、経験からあるのですが、そう考えると、裸の王様ではないですが、真実を言って下さる方というのは、大事にしなければいけないと思いました。そして、自分も人に対して、争いごとがないように、あたらずさわらずでは、いけないのかもしれないとも、思いました。
キーボードに向かうと、手が考えてくれるというのは、変かも知れませんが、そういう感じがしました。浮かんだ事を、文字にしてしまうと、次にまた新しい事が思い浮かんでくる。私にとってのメール内観はそんな感じです。パソコンに向かって、書き出すまでが、たいへん億劫でありましたが、せっかくここまで続いたので、もう少しがんばってみようと思っております。