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「お父さんは我侭だから、お寺で修行しておいで。」と家族に送られて内観に参加することになった。内観というものがどういうものかも知らず、お寺の修行だから、座禅をしたり写経をしたり説教を聞くぐらいのものと思っていた。
内観を始めてびっくりしたのは、屏風の中で一人で「母に対する自分を調べる」ことで、記憶もない生まれた時から始めなければならないと知り、とまどってしまった。
こんなことを毎日朝から晩までするということで、家で一日何もせず、新聞やテレビで暇をつぶしても退屈するのに、このような生活ができるかどうか心配だった。
小さい頃のことは思い出せず、思い出してもメモをすることが出来ず、果たして調べたことをうまく話せるだろうかと、和尚さんの近ずいて来る足音にビクビクと不安が一杯であった。
無我夢中で話し終わったが、思い出したことの半分は話し忘れている状態であった。話し下手の話をじっと聞いて下さる和尚さんも大変ではなかったかと思う。
特に父のことについて内観したことを話しているうちに、亡くなった父が愛情をもって育ててくれたにも拘わらず、生来の気の弱さから、父を恐れ、避けまわっていた自分を思う時、なぜ父親を頼ってその胸の中に飛び込んで行かなかったのかと悔やまれ、父も淋しく死んでいったのではないかと涙が出て止まらなかった。
父が亡くなった時は恐いものがいなくなってホッとした気持ちで、涙もでなかったのが不思議でならなかった。
この父の愛情を思う時、人は一人で生きられず、多くの人や物によって生かされているので、感謝の気持ちを持たなければいけないことを実感させられた。
このように内観というものは、心で学ぶものであり、他の学問のように頭で考える必要がないもので、内観中のノートへのメモが禁じられていることも理解できた。
そして、内観で調べたことを洗いざらい和尚さんにぶちまけて救いを求めようという気になり、面接されるのを心待ちするような気持ちになった時もあった。
山中の静かな清浄な空気の中で仏様に参拝し、心を洗われ、すがすがしい気持ちになった6日間で、良い経験をしたと感謝している。
内観での「お世話してもらったこと」への感謝と「迷惑をかけたこと」の反省によって「して返したこと」への奉仕の心が生まれるのではないかと思った。
私の人生も残り少ないものとなったが、ここで学んだ感謝と奉仕の心を持ち帰って、あと残された人生を有意義に送りたいと思っている。
最後に、心を込めて料理して下さった裏方さんに感謝とお礼を申し上げたい。このことに気付いたのも内観によって得られた成果だったのかも知れない。