私はクリスチャンですので、お寺で内観をする事が、多少不安でした。それまで、内観というと、お寺の修行の一つというような先入観があったからです。最初の説明を聞いて、朝晩おまいりがあるということで、クリスチャンの私は参加しない旨を伝えたのですが、それは全然構いませんよと言うことで、まず安心しました。
2日、3日と内観を進めていくうちに、内観というものは宗教を問わない一つの精神療法のようなものだとわかってきました。そして、3日目ぐらいからは、心がまっすぐに内観(自分の心)の方に向いてきました。
さて、内観の中身ですが、最初はいろいろなことが全然思い出せず、こんなにも自分は過去のことを忘れているのかと愕然としました。それに思い出すのは、していただいた事、迷惑かけた事ばかりで、自分からして返した事がほとんどありませんでした。
しかし、母親のことをずっと考えていくうちに、自分がずーっと母親のことを憎んでいて、過去に和解したつもりになっていたのですが、どこかにまだひっかかっているものが沢山たまっていることが解りました。父親に対しても同じ事が言えます。
自分は今まで自分に都合の良い勝手な理由をつけて、その事に直面するのが怖くて逃げてばかりいたように思います。ところが、逃げれば逃げるほど追っかけてきて、捕まえては苦しめ、放してはまた捕らえて苦しめられるということを、飽きもせず繰り返してきたような気がします。
一番問題だったのは、私が幼い頃、妹が何年間もずーっと寝たきりの重病になり、その世話で、私は一番大切な時期に母親に甘えることも、かまってくれることもなく、いつも独りぼっちでした。また、父も仕事で忙しく、会うこともないという状況でした。おれは愛情の一番欲しい時に、その大切な親からの愛情を受けられなかったんだ、悔しい・・・、親を恨む・・・と言うことに、精神的に私がこだわり続け、泥沼にはまり込んでしまっていたという事です。
それでも内観を続けて、一つ一つの事柄を、自分の感情はひとまず置いておいて、その人の気持になって考えるということをやっていくうちに、段々と自分の気持ちが整理できてきて、母も父も自分にとっては親だけれども、一人の普通の女性と、一人の普通の男性であるということが解ってきました。それが解ってくると、重病人の妹の世話で、2人とも大変だったんだな、自分はそんな事は当然だと半分憎しみを込めて思っていたのが、全く間違っていたなと気づきました。
最終日のいちばん最後に、死んでしまった妹について内観を行いましたが、その時に妹が自分に話し掛けてきたように感じました。「おにいちゃん、誰も悪くないんだよ。これからは、きっとうまくいくよ。」と。
私はこれからの人生、母親を始め、父親、妻、親族、周囲の人々に対して、本当に心を開いて、自分本位にならず、自然に愛情を持って生きていけたらと思っています。