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大日乃光






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2013年02月17日大日乃光2034号
『発掘調査報告書を機に当山の歴史を振り返る』

完成間近の南大門遺跡発掘調査報告書

一年で一番寒い季節となりました。全国の、そして海外の信者の皆様はお元気でしょうか?
一昨年、再建が成った南大門の工事の前に行われた、埋蔵文化財の発掘調査の報告書が、最近ようやく出来上がりつつあります。

この事からも、当山が中興の時代から新生の時代へと向かっている事を実感しています。
そこで新たな時代に向かう前に、文化財の視点から今一度、これまでの中興への歩みを振り返ってみたいと思います。

中興と歩調を一にした境内の発掘調査
 
私の知る限り、玉名市教育委員会が当山の境内を発掘調査されたのは、今回で四回目です。

第一回目の昭和四十三年の本堂建立に伴う発掘調査では、玉名市文化財に指定されている青銅製佛頭など多くの品々が出土しました。

これらはかつての金堂(本堂)が末永く安泰である事を祈って地中に収められた鎮壇具(ちんだんぐ)でありました。この事から、現在の本堂のこの場所に、主たる寺院の建造物が建っていた事が証明されました。

第二回目は昭和六十二年の現在の庫裡(寺院の住居)の全面改築にあたっての発掘調査。第三回目は平成七年の五重塔建立予定地の発掘調査でした。

いずれも発掘調査委員長は、故田邉哲夫先生でした。田邉先生は当山中興二世、先代貫主、故川原真如大僧正様とは旧制玉名中学校の同級生であり、親友でもありました。

盟友の田邉先生を拝み倒した先代真如大僧正様の確信

先代が三十代の頃、田邉先生が母校の玉名高等学校に教諭として赴任された時の事でした。先代は田邉先生に、「田邉君、蓮華院と皇円上人(大菩薩様)の歴史について学問的に調べてくれないか?」と頼んだのです。

その時、田邉先生は、「地域に残る言い伝えや伝説の類は、調べて行くに従って曖昧なものになっていく事がほとんどだから、やらない方が良い!」と、最初は断られたのでした。
しかし、先代のあまりに熱心な頼みに、ついに根負けした田邉先生は、まずは文献調査から始められました。

次々に証される古来の伝承

そして、
①地元に残る「蓮華」「髙原」「南大門」「小路」などの地名は『肥後國誌』にも記載があり、ここにかつて大寺院があったと記されている事

②既に望月信亨著『佛教大辞典』に、皇円上人が「肥後國玉名郡築地村の人」と記されていた事

③皇円上人が藤原家の系図と、天台宗の法脈図に明確に出ている事
などを確認されました。

そして田邉先生と先代は、皇円上人が遠州(静岡県)桜ヶ池で龍に化身して修行に入られたとの伝説を確認するために現地に赴き、フィールド調査を実施されました。すると桜ヶ池周辺と、現玉名市築地周辺のどちらの地にも「蛇ヶ谷」「桜ヶ池」の地名が共通して現存している事が確認出来ました。

さらに、かつて皇円上人が修行された比叡山東塔の「功徳院」が、「肥後阿闍梨皇円御住坊」、別名「法然堂」として現存する事も併せて確認されました。

その後、本堂改築の際に発掘調査が行なわれた結果、約千二百年程前の新羅系の佛頭を始めとする数々の鎮壇具が出土しました。

昭和末の境内地の発掘調査では、僧坊を始めとする様々な堂宇の存在が確認されました。その中で、当山が約四百年前に戦乱の中で焼失した事も確認されました。旧境内の北西の角を調査された時には、白鳳時代の重弧紋瓦が出土しました。

また平成六年には、旧境内の外側、東隣にあった市営の東南大門住宅の改築の際にも、同じく田邉先生によって発掘調査が行われ、大野一族のものと思われる夥しい数の葬送遺品(甕棺墓)が出土しました。

これらの発掘調査を踏まえて、田邉先生は、「これまで皇円上人がこの地で生まれたという伝説はあったが、学問的には確信が持てなかった。しかし皇円上人の母方が大野氏である事はまず間違いない。まさに浄光寺蓮華院は大野氏の館跡に、皇円上人と深い縁の惠空上人によって建立された寺院である事を示すものが次々と出現した。先々代の是信大僧正の霊的な直感は間違いなかったんだ!」と興奮して話されたのが、私の脳裏に昨日の事のように蘇ります。

また五重塔建立予定地の発掘調査でも、私が予想していた五間四面の「基壇状遺構」が、田邉先生によって確認されたのです。

皇円大菩薩様は、地元大野一族の出身

ある日、田邉先生が、「英照さん!岱明町に大野下という地名があるが、なぜそう言われるか分かるかね?」と尋ねられました。

「それは大野氏の本拠地である、ここ玉名市築地のこの蓮華院の南の下にあるから大野下と呼ぶんだよ。築地のすぐ南東の大野口もまさに同じような意味の地名なんだ。つまり、今の蓮華院誕生寺そのものが、大野一族の本拠地だったんだよ。という事は、大野氏の姫君が、この地で皇円上人をお生みになったと言っても間違いではない!! 私も四十年近く蓮華院と皇円上人の研究を続けて来て、ようやく大きな目的を達成した思いだよ!!」と、楽しげに、満足そうに話されました。

これまでの全ての発掘調査では、中世の遺構のさらにその下の層からは、弥生式住居が数多く発見されています。それはここ築地の地が古代から風水害も少なく、人の住みやすい地域であった事を示しています。

その後、大野一族は港を通じた交易の利便性を求めて東へ東へと根拠地を移動させます。その結果、玉名市中という地名も、大野一族の中心地としての大野中村が元になっているとの事です。

二基の五輪塔が示す、蓮華院の格別な寺格

そして当山は、少なくとも七百十五年以上前には時の朝廷から「殺生禁断」の宣旨(当時の天皇陛下によるお墨付き)を賜っていた特別な大寺院であった事も、国指定重要文化財に指定されている『東妙寺文書』によって分かっています。

大地に埋もれていた文化財ではありませんが、現在鐘楼堂の南隣に地元で「関白塔」と呼ばれている二基の大きな石造りの五輪塔があります。この五輪塔は、国内で最も信頼の厚い文化財研究所の一つである「元興寺文化財研究所」によって、詳しい調査が行われました。

その結果、西大寺型の五輪塔としては九州最大であり、総高で東塔が二百五十三センチ、西塔が二六八センチで、全国でも五~六番目の大きさという事が分かりました。

西大寺を中興された興正菩薩叡尊上人を供養するための、西大寺奥の院叡尊廟の五輪塔が三百三十四センチ、一丈一尺の大きさです。叡尊上人の高弟である、鎌倉極楽寺の忍性菩薩の五輪塔が三百八センチ、一丈一寸です。このように叡尊上人より大きな五輪塔は西大寺系のお寺にはありません。そして叡尊上人から法脈的に遠くなるに従って、小さくなっているのです。

後宇多天皇の勅願寺である東妙寺の開基、唯円上人の供養塔が二百十センチですから、当山の二基の供養塔はそれより遥かに大きいのです。という事は、唯円上人よりも叡尊上人により近い高弟のお二人の供養塔であるという事が推定されるのです。

『東妙寺文書』に記されている当山の開基は惠空上人となっています。二基の内のどちらかは惠空上人の供養塔である可能性が高いと思われます。では、残り一基の大きい方の五輪塔が皇円上人のための供養塔なのかは、まだ分かっておりません。

この二基の五輪塔を調査された先生に、当時伺った話では、この二基の五輪塔は玉名市指定の文化財ですが、国指定の重要文化財に認定されてもおかしくはない程の、立派な五輪塔であるとのことでした。

一昨年、そのような歴史を持つ寺院に相応しい南大門が再建できたのです。これも、かつての南大門を数々の伝説と共に守りとどめて頂いた、地元の多くの方々のお陰です。このご恩に対し、今後いかにして報いて行くべきかを常に念頭に置きながら、日々の寺院運営に精進すべしと志を新たにしている処であります。 合掌





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