今回も、前回に引き続き、小林正観著『ただしい人から、たのしい人へ』(弘園社)を紹介させていただきます。私の今までの人生で、一番感動した書物です。皆様も是非是非お読みください。人生が楽しく、過ごしやすくなる本です。
宇宙の原理・原則は「投げかけたものが返ってくる。投げかけないものは返らない。」「愛すれば愛される。愛さなければ愛されない」「嫌えば嫌われる。嫌わなければ嫌われない。」というものです。
究極の解決方法というのは、「問題を問題として認識しない」ということです。「なんておまえはバカなんだ」と言われたときに、「そうなんです。私は本当にバカなんです。ずいぶん長いこと隠していたんですけど、ついにわかってしまいましたか」と言ってニッコリ笑えることが、五次元的な解決方法です。これで、長年の夫婦喧嘩がやんだという方もいます。
しかし、実はこれは解決方法ではなく(解決しているのではなく)、もともと問題を認識していない、ということなのです。ですから、解決をするのではなく、解決をするための問題が、はなから生じないような考え方や生き方をする、ということにほかなりません。
私たちの目の前に起きる現象は「修行の場」と規定されているわけではなく、すべて、中立なのではないでしょうか。認識力が上がってくるにしたがって三つの段階を踏むように思います。
第1段階は「この世が修行の場である」という認識です。
第2段階として、同じ現象を目の前にしたとき、「実はこの世は喜びの場なのではないか」ととらえることもできます。
第3段階というものは、「この世は修行の場でもなく、喜びや幸せの場でもなく、実は感謝の場である」ということに気が付くことです。
現象は「ゼロ」、中立で色がついていません。どのようにとらえようとも、各人の自由です。
自分が「大したものじゃない」「ろくなものじゃない」「ちゃんとしたものじゃない」と、心を定めることができたら、人間はとても楽に生きることができます。
すべてのことが周りの人々目に見える四者(友人、知人、家族、自分の体)と、目に見えない四者(神、仏、守護霊、精霊)の力によるものだということがはっきりとわかっていたら、何かができても自分の力でできたわけではないということに気が付くわけです。
ですから、自分のことを「大したものじゃない」「ろくなものじゃない」と思い定めることができれば、それが取りも直さず謙虚さということであり、同時に感謝の気持ちをいつも持っていることになります。
落ち込む人、また有頂天になっている人というのは、すべて自分が「大したものである」「ちゃんとしたものである」「なかなかのものである」と思うところから来ているように思います。本当に謙虚になると、落ち込むことも有頂天になることもなくなるような気がします。
どうしたらこの宿に人が来るか、どうしたら売り上げが上がるか、どうしたら利益が確保できるか、と考えているうちは、答えは出て来ないと思います。質問が間違っているからです。「正しい」経営というものを考えているうちは、本質的なものが見えてこない ような気がします。
質問は、また、本質的なものとは、『どうしたら、来たお客さんに喜んでもらえるか』という事です。「楽しい」経営とは、『どうしたら、来たお客さんに喜んでもらえるか』を考えることで、この一番「楽しい」部分を放棄するのは、もったいないの一語に尽きます。その結果、楽しみながら、儲かることになるのです。
「き・く・あ」とは、「競わない・比べない・争わない」の略です。
すべての人が指をさして「これが幸せだ」と言える事物や現象は地球上に(宇宙にも)存在しません。「幸せ」というのは、その人が「幸せだ」と思ったら、その人にのみ帰属して存在する、というのが私が到達した宇宙的な結論なのです。
でも、「幸せ」の構造は大変簡単であるにもかかわらず、多くの人が「幸せ」を手に 入れているとは思えません。なぜか。それは、「競うこと」「比べること」「争うこと」を前提として生きることを教え込まれてしまったからです。人と競うこと、比べること、争うことで人より抜きん出て、初めて「えらい」とか「立派だ」とか「素晴らしい」という評価をされる、という価値観で生きる日々を送ってきました。
その20世紀的な価値観から、そろそろ抜け出してよい時期に来ているのではないでしょうか。21世紀は「競うこと」「比べること」「争うこと」を基礎的な価値観とするのではなく、「競わないこと」「比べないこと」「争わないこと」を基礎的な価値観とすることはできないものでしょうか。
競うことではなく、自分が楽しいと思えるような(この瞬間、だけでなく、未来にわたって継続できるような、楽しい)生き方をするということにほかなりません。自分の生活の中で「他人と比べない」「世間と比べない」ということが身についたら、生きることがどれほど楽になるかわかりません。
人間の体というものは、常に「ほかのもののために」存在しています。肺にしても、心臓や腎臓、肝臓、胃、腸にしても、自分のために存在する臓器というものは何一つありません。皆、体の中に存在する他の臓器や細胞を生かすために働いています。人間の体そのものが、エゴイストが全くいないという状態で成り立っているのです。
一人では生活できない以上、人は「人間」として生きていくほかはありません。この「人間」として生きるということは、取りも直さず、自分のために生きることではなく、「ほかに存在するもののために生きる」ということです。
それは、人間社会の中で自分が「いかに喜ばれる存在になるか」ということにほかなりません。「私がどこまでいくか、どのような人間になるか」ではなく、「いかに喜ばれる存在になるか」ということに尽きます。これを平明な言い方に直せば「いかに頼まれやすい人になるか」になります
頼まれやすい人であるというのは、喜ばれる存在であるということにほかなりません。頼まれたことをやってあげたとき、その相手はニッコリ笑って「ありがとう」と言ってくれるに違いありません。そのときにこそ、人間の本当の「存在の喜び」が湧いてきます。
「喜ばれることが人間の最も根源的な幸せ」。そういう幸せを感じるように私たちの心にはプログラムがセットされているようです。
ニッコリ笑って「ありがとう」と言われたとき、私たちは本当にこの上ない幸せを感じるようにできています。実際にやってみてください。ニッコリと美しい笑顔で「ありがとう」とお礼を言われた時に、「ああ、生きていてよかった。私はこれをさせていただいてよかった。実は一番幸せで楽しいのは、私ではないか」と思えるに違いありません。
「正しい」という価値基準ではなく、それをやることが「楽しい」のかどうか、ということを物差しにすると、楽しく、幸せで、心穏やかな時間が過ごせるでしょう。(終)
教えを説く者は、忍耐の大地に住し、柔和であって荒々しくなく、すべては空であって善悪のはからいを起こすべきものでもなく、また執着すべきものでもないと考え、ここに心のすわりを置いて、身の行いを柔らかにしなければならない。(法華経)
*あなたも メールマガジン「幸福ニュース」を購読しませんか。費用は、無料です。 下記に登録するだけで、E-MAILで毎月3回自動配信されます。 メールマガジン登録 メールマガジン解除
|
|