今回は、不登校のお父さんから原稿をいただきましたので、皆様にご紹介させていただきます。子供の不登校で、何に気付いたか。子供さんが立ち直るまでと、自分自身の生活について、実体験に基づいた非常に参考になる話です。
丸四年前、中学校二年に、在学中の息子が、夏休みの少し前に、突然、学校に行かなくなりました。今、考えますと、親自身が子供の自立心を育てられなかったことが一番で、本人の弱さとクラスでのいじめと、新任の先生と子供の信頼関係がその時は無かったのだと思います。
はじめ、「まさかうちの子に限って」などと、わが子の不登校を信じられませんでした。しかし、私が、アルコール依存症の専門病院に勤務して、20年になります。アルコール依存症の患者さんが専門病院にかからないと、なかなか快復のきっかけをつかめないと同様に、不登校の問題は、不登校の専門家になりふりかまわず相談することに妻と話し合って決めました。
また、担任の先生にも率直に意見を言いました。例えば、わが子が宿題を提出しないから、クラスの班変えをしない理由にしないこと、宿題を提出しないのは、わが子の門題であって連帯責任性をやめることを要望すると、担任は、直ぐに理解してくださいました。この宿題提出問題が、クラスの中でのわが子へのいじめの一つの原因でした。
そして、妻と二人で、養護の先生に相談をして、市の児童相談所に相談に出かけました。この児童相談所に通うことで、解決の方向を見定めることが出来ました。相談所の先生から「お父さん!一ヶ月間だけ、子供さんに『ゲームをやめなさい』と言うのを止めてみませんか?」と、アドバイスを受けて、しぶしぶ約束をしてしまいました。このことを実行することは、私にとって大変苦しいことでした。一ヵ月の間「ゲームを止めなさい!!」と言わないですむと、その後もずっと言わないで済むようになりました。
その頃、”ゲーム中毒”になっていた息子の気持ちを逆なですることで、反発を招き、私自身もストレスが高まっていたことに気付かされました。アルコール依存症(アル中)患者が、お酒を飲んでいる時に「お酒を止めなさい!!」と言っても何の解決にもならず、逆効果であることと本質的に同じでした。
また、児童相談所の先生から、「子供達もそれぞれのの役割を持っている。自分が登校拒否することで身体(からだ)を張って、お父さんに立ち止まって考えて欲しいと訴えかけているのかもしれませんね」と言われましたが、その意味が私には分かりませんでした。
その後も、児童相談所には、夫婦で通い続け、児童相談所の先生の紹介や助言もいただき、『親業講座』の受講、アドラー心理学の講演会などに参加をしました。とにかく必死の思いでした。
さらに、一週間の有給休暇をとって、佐賀市内の『内観研修所』で、朝六時から夜の九時まで、和室の六畳一間の屏風の中で、集中内観を行ない、私の両親から「してもらったこと」、両親に「して返したこと」、両親に「迷惑をかけたこと」の三点について、自分のこれまで歩んで来た体験について、集中内観をしました。
こうした学習と実践?の中から、私自身が両親の息子として、また、妻の夫として、子供達の父親としての役割を全く果たしていなかった自分にやっと気付き始めました。
その後、長年勤めてきた職場(病院)の労働組合の委員長(結成直後から約十年間、直後には、たった一人の有資格者にもかかわらず不当な解雇を受けましたが何も悪いことは、していないので一ヶ月足らずで職場復帰をしましたが、その間、有資格者不在が続きました)や、ある労働組合連合会議長(メーデーや会議・集会のでは必ず挨拶をしました。挨拶だけですが・・・)そうした各種の団体の代表を本音を語って、それぞれの団体の皆さんのご理解の下に辞任させていただきました。
辞任後には、父や母を温泉に連れて行ったり、母を広島県呉市の海軍墓地に連れて行ったりしました。母は、父の兄と結婚していましたが真珠湾攻撃に向かう潜水艦の中で、戦死をしています。父も中国で、妻と子供達を亡くしていまし、満州に捕虜として連行され、最後の船で、京都の舞鶴港に体一つでボロボロになって帰ってきたそうです。しばらくして、父と母が再婚しました。
戦後には、よくある話でしたが、両親は、私達子供には、このことについては何も語りませんでした。そんな両親のことを少しは、思いやることができるようになりました。まだまだ恩返しが出来ていません。
また、一方では、長男が不登校になった、その夏休みに、その中学校の生徒が水難事故があり、臨時のPTAの総会が行なわれました。その時、校長先生が、自分は、家族関係の大切さと自分も子供に対しては、良い父親ではなかった様だとのお話をされました。
その時に、私はその席(妻は、出席していませんでした)で、わが子の不登校の問題について発言をしました。その発言を聞いてくださっていた長女の同級生のお母さんが、後で、妻に『実は、私の子供も不登校でした』との話を伝えてくれました。
その方の知り合いの方の子供さんも不登校の体験者でした。そんな親御さん達と地元の町内の教育相談室の担当の先生方と一緒に、約三年前(現在から言えば、五年前)の1997年3月に、「不登校の子供と共に歩む会(つくしの会)」を結成しました。この会は、毎月、第二、第四火曜日に、例会を行なっています。第二火曜日は、不登校のこの子供を持ったり、体験した家族だけの会で、第四火曜日は、不登校を抱える先生や関心をもたれている方々も参加できる会です。
この「つくしの会」で、体験を本音で語り合い、自分の子供が特別なんだとは、思わなくなり、ずいぶんお互いが楽になり、不登校を克服(?)した方の体験を聞くことで明るい希望を持てるようになりました。そして今、不登校で悩んでいらっしゃるご両親や新しく参加されて、大変喜ばれています。また、不登校の生徒を抱えていらっしゃる先生を『大変参考になります』とおっしゃられています。
現在、県立農業高校三年(今、現在は、専門学校二年生)の息子が、地元の中学校三年の卒業の時、校長室で一人の卒業式を実施してくださった当時の校長先生を始め、三年時の担任の先生など関係者の皆様に心から感謝を申し上げます。また、不登校の子供を受け入れてくださった農業高校の校長先生と関係者の方々にあらためまして御礼を申し上げます。
最後に、不登校を体験した息子は、農業高校造園土木学科で、しっかり学び体育祭や農業文化祭などで頑張っています。昨年の夏休みには、自分の意思から、『子ども長期自然休暇村(13泊14日)』で、小学生のお世話をするボランティアリーダーを無事に果たすことが出来、参加者のご両親や教育委員会の方々から、大変喜ばれ感謝されて立派に役割を果たせたそうです。
そして、また、地元の教育委員会から今年もボランティアリーダーを要請されて、その期待に応えるために、夏休み前のリーダー研修に参加しています。関係者に大変喜んでいただき、親としても大変嬉しく思っています。
しかし、一方では、長男が不登校の時に、長男と私が殴りあいになろうとしたその瞬間、次男(中学二年の時)が体を張って、私を後ろから羽交い絞めにして、「僕が家族を守るんや!!」「僕が家族を守るんや!!」と何度も、大きな声で叫びながら我が家の危機を救ってくれました。
その次男が、今、高校一年生ですが、一学期の期末テスト前から、不登校気味となり、期末テストも途中から受けていません。しかし、私は、父親として、長男の不登校の時とは違って、大きな目で、次男を見守ることができるようになりました。「不登校も選択肢のひとつであり、不登校は未来を開く」と思っております。
私は、これからも、両親の子供として、妻の夫として、そして、何よりも三人の子供達の父親として、社会の構成員の一人として成長する努力をします。
この度の体験を語るチャンスを与えてくださった農業高校のPTAの役員の皆さんとつたない体験談をご清聴くださった皆様に感謝を申し上げます。本当に、ありがとうございました。
教えを説く者は、忍耐の大地に住し、柔和であって荒々しくなく、すべては空であって善悪のはからいを起こすべきものでもなく、また執着すべきものでもないと考え、ここに心のすわりを置いて、身の行いを柔らかにしなければならない。(法華経)
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