今回は31才男性の内観体験記をご紹介させていただきます。軽い欝(うつ)病でひきこもりのような状態になられた方が回復されていく様子がつづられています。
内観に参加するにあたり、方法・目標等の知識はありませんでした。何をどうするのか、成り行きまかせでありました。目的としてはうつ病から完治しない自分を何とかしたいというものでした。内観が何かを与えてくれるだろうという他力本願な気持がほとんどであったと思います。
参加初日はとりあえず、やり方は理解できました。2日目はこれが何になるのか疑問に思い始めました。3日目は「してもらった事」に対して、「して返した事」が少ないことを自覚しました。しかし、この時点ではまだ、本来の自己というものへの自覚は全く出来ていなかったと思います。
通り一辺な「あるべき論」で、自分は頂いたものより返したものが少ない、よって、今後はお返しする事を考えなければいけない、と思っただけにすぎませんでした。
三日目の夜最後の面接のさいに頂いたプリントに、まず最初の自己の自覚につながる一文がありました。「して返した事は、本当に尽くしたいという気持からした事。」これはゲンコツを頭にくらったような思いでした。物を贈ったり、その人のために何かしたりという事は、何度もありましたが、「本当に尽くしたい気持」がこもっていたかどうか考えると、全くあやしいものです。ここで改めて自己を見つめてわかったのは、私は人に本当に尽くしたいという気持でした事はまるで無いという事実です。
ということは、もらうだけもらって、何もしていない盗人というべき自分がそこにいるという事になります。返したものの多少が問題なのでなく、返していないのが問題なのでした。
さらに面接者の方から「相手がどういう気持でして下さったかを考えて、して頂いた事を調べてください。」というアドバイスをいただきました。ここに2回目の自己の自覚へつながるヒントがありました。そのアドバイス自体にはさして感銘も受けず、半分聞き流してさえいました。
ですが、大学時代の母に対する自分を調べていた時に、大変な事に気づくことへとつながりました。
して頂いた事で、「服を買うように」との母の言葉と共に、いただいたお金のことがありました。この時母は、「息子が薄汚い破けたような服を着ているのはかわいそうだ。」との気持で下さったと思います。ところが私は、そのお金で服を買うどころか、自分の欲しい別の物へ流用してしまったのです。相手の気持を省りみずどころか、他へ流用してしまった。これは母の財布からお金をくすねたのと同じです。私は盗みをしていたのです。
相手の気持を考えた時、これ以外にも何と相手の気持に反した行為が多かったことか。高い費用を負担していただいた予備校で、ゲームとマンガに明け暮れてロクに勉強しなかった自分、同じく大学でも身になる勉強を全くしなかった自分等々。あふれるほどの盗みが次々と判明いたしました。
私は、父や母や様々な人々の心を盗み、金を盗み、生きてきたのです。このようなことは、内観をする前には、思いもよりませんでした。当たり前のこととして、ただもらって知らんぷりだったのです。何と浅ましい自分でしょう。
他にも何点も、今まで気づかなかった、または、見ないふりをしていた自分を気づかせていただきました。その一つ一つに私は恐れおののくばかりでした。自分を知らないと言うことをここまで自覚したのは初めてですし、本当の自分に直面したのも初めてでした。
たいして熱心に内観をしなかった大バカ者の私でも、この様ですから、もっとより深く内観しましたら、一体この上何がでてくることか。自分の罪深さ、無理解、無感謝。うわべだけ取り繕う自分がもっと自覚できたことでしょう。
私はこうして「真実の自分」の一端を自覚するにあたって、「うつ病だ何だと言っている場合ではない。」と思うようになりました。自分の中に閉じこもってグズグズしていたら、また更に悪い自分へと転落していくばかりです。
過去は過去として認めて、厳しく反省し、その上で出来る事を探さねばなりません。また、更に内観を進めて、二度と後戻りすることのないよう、自分を見つめていく必要もあります。私は、今回その方法をお教え頂いたのです。「救け」は外でなく内にありました。
「自己を自覚する」ことは、まだまだ先の長い旅だと思います。しかし、それに気づかず、今までの自分のままでいることは、内観を終えた今、考えたくもありません。本当に貴重なことを教えていただき、蓮華院の皆様方には感謝の気持で一杯です。今後も内観を続け、自己を自覚し、改革していくことにより、自らが抱いていた問題を解決し、家族と共に楽しく生きていけるよう努力いたします。
一週間の長きにわたり、色々と面倒を見てくださったお寺の皆様に心から御礼申し上げます。ありがとうございました。(終)
どんな悪をもなさず、あらゆる善いことをし、おのおのの心を清くする、それが仏の教えである。
耐え忍ぶことは、なし難い修行の一つである。しかしよく忍ぶ者にだけ最後の勝利の花が飾られる。
怨みのさ中にあって怨みなく、愁いのさ中にあって愁いがなく、貪(むさぼ)りのさ中にあって貪りがなく、一物もわがものと思うことなく、清らかに生きなければならない。(法句経)
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