感謝の心を呼び戻そう |
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先般、私はある会の理事会に出ました。そこに集っている方々は県内の各界のトップリーダーばかりでした。宗教者はたまたま私一人でした。その理事会は昼食をはさんで一流ホテルで行なわれました。
私はその会議には初めて参加しましたし、一番若いということもあり隅の方に座っていました。ボーイさんが先ずスープを運んで来られました。全員の分が揃ってから一緒に食事を始めると思っていたのに、先にスープが来た人から思い思いに食事を始められました。
私は最後にスープが運ばれてきたので全員の方の食事前の作法を見ていました。ところが私以外はだれ一人「いただきます」とも言わなければ、まして合掌して祈る人は一人も居られませんでした。
ホテルの昼食だから合掌しにくいのもあるかもしれませんが、私以外の人びとが皆立派な会社の社長さん、会長さん、大学の学長先生、役所の幹部の方です。それらの方々は自宅での三度三度の食事で、はたして「いただきます」と言ったり合掌したりしておられるのでしょうか。
数日おいてまた別の教育関係者の集まりに出席しました。会議の後の宴会でのことでした。お酒も入りなごやかな中での懇談でした。私は途中トイレに立ちました。宴席に帰る時に気が付いたのですが、二〜三十人分のクツが部屋の入口に所狭しと脱ぎ捨てるようにしてそこにありました。
私は思わずそれらの向きを揃えて整理して部屋に上がりました。ところが宴会が終わって帰る時には、また前と同じようにはき物はばらばらに混乱していました。
たて続けに出会ったこの二つの例だけで言うのは的外れかもしれませんが、大の大人しかも社会的に地位の高い人々や教育関係の人びとでさえも、昔は常識だった日本人としての生活マナーがいかに混乱しているかをまざまざと見せつけられました。
日本に長年住んでおられるある外国人の方が言っておられました。「世界中の若い人びとは今も昔も新しいものや新しいファッションに敏感で、時には反社会的な行動をする若者もいます。しかし近年の日本の若者達の中に人間としての基本的マナーが全くできていない人達が急激に増えているのには目をおおいたくなります。日本の将来が不安です。」と言っておられました。
当山では長年、子供達のための研修会「一休さん修行会」を行なって来ました。その中で最も気を付けて指導しているのは「食事のマナー」「はきもの」のことです。このことが実は多くの大人でさえもできていないのが現状です。
近年教育改革が叫ばれています。教育は「家庭教育」「学校教育」「社会教育」の三つの分野で行なわれて来ました。では「マナー」や「しつけ」はこの三つのどこが責任を持つべきなのでしょうか。
言うまでもありません。それは家庭です。親が子供に「しつけ」をせずに誰がすると言うのでしょうか。ところが前にも言いましたように、大人の指導者でさえ、この「マナー」「しつけ」が出来ていない人が多い様です。
この様な現伏では多くの子供を持つ若い「おとうさん」「おかあさん」にこれを求めるのは無理なことかもしれません。そんな親に育てられた子供達、青年達がマナーがなっていないのは当然のことでしょう。
ところで最近、商エローンのことが新聞などで伝えられていますが、数年前からサラリーマン金融、すなわちサラ金の問題で困つた人の相談を受けるようになりました。また、各地の内観研修所でもそういう方が増えているようです。
先日は45才のお嫁さんが八ヶ所のサラ金から、六百万円程借りて返せなくなり、突然家から姿を消したが、どうすれば良いか、という相談がありました。
また昨日は25才の息子さんが三百万円をサラ金から借りて返せなくなり親に泣きついて来てその息子さんと一緒にお母さんが特別指導に来られました。
そう言えば玉名の近所でも自動貸出機の置いてあるサラ金の店舗が国道沿いに何軒もできました。それ程利用している人がいるということでしょう。
「楽あれば苦あり」という古いことわざの示す通り、苦労をせずに安易にお金を借りると返済ができなくなって四苦八苦して、果ては失踪した先のお嫁さんのような目にあわなければなりません。
お母さんと一緒に来た25才の青年にどんないきさつでそうなったかを聴きますと、最初は友人の結婚式のために交通費と祝金のために15万サラ金から借りたそうです。
そこで計画的に月々少しずつでも返しておけば良かったのですが、気楽に安易に借りたお金はアッという間に無くなり、コツコツと努力しても返済するという、楽の後の苦しみからのがれるためにまた別のサラ金から借金します。
返済日に利子だけでも返さないと、金利はグンと上がり、ますます返せなくなって第三第四のサラ金からまたまた安易に借り、ついに三百万円とか六百万円という具合にサラ金地獄に引きづり込まれてしまうようです。
「火の車作る大工はなかれども、己(おの)が作りて、己が乗り行く」というようにこのサラ金地獄は月給二十万円の人がサラ金から三百万円借金すると約半分は金利だけの返済に追われるようです。まさに自分で原因を作って、自分で苦しむ火の車なのです。
食事のマナーやはきもののことを先に話しましたが「そんな小さなことはたいしたことじゃない」と言われそうですが、そうした心の持ち方の変化が習慣の変化に現れて来ていると思えば、これは決しておろそかにできない現代日本の様々な社会の深層部と深くかかわっていると思います。
その深層部とは何かと言いますと、それは「深く反省をしない」いま一つは「感謝の心がうすいこと」だと思います。
自分自身で深い反省をすることは大変難しい事です。たとえば先の25才の青年は最初は借金を百五十万と言っていました。私は以前にも何度か同じ様な相談を受けていましたのでお母さんには別室に行ってもらって、「本当に百五十万円で全部か?もっとあるだろう。ここは仏様の前だ、ウソを言ってはいけない。全部洗いざらい言いなさい。」と厳しく言いますと、やっと総額三百万円ということが判りました。
親や友人には少なめにウソを言ってしまう。すると残った借金の返済ができなくなって、また元の木阿弥の借金地獄に転落してしまうのです。
今日お参りしにいらしている方にはそんな人はいないと思いますが、祈願や祈祷に頼って自分の生活のあり方や心構えを変えることをせずに、その場しのぎのご利益や霊験にばかり心をうばわれている人は結構おられます。これは当山の三信条の第一である「反省」が本当はできていないのです。
本当の反省、懺悔(さんげ)ができないと深い感謝の心も起きてきません。反省は周りの人や社会に対して申し訳ないと思うことから始まります。これが深くなると、自分自身に「申し訳ない」という思いになります。「神仏に対して申し訳ない」という宗教的な反省は懺悔と言います。
サラ金から借金した青年は親戚にはウソを言っても、仏前で私が問いつめるとやっと本当のことを言ってくれました。この青年の心にはまだ心のどこかに神仏に対する「おそれ」の様なものが残っていたのでまだ救いがあるというものです。
この人間社会を越えた「何ものか」を日常生活の中で私達に気づかせて頂けるのが三度三度の食事の時の合掌であり、「いただきます」という言葉なのです。「いただきます」という言葉の意味は今さら言うまでもありませんが、今日初めてお参りされた方もおられるので申し上げます。
これは決してこの料理を作ってくれた人、米や野菜などを作って下さった人々だけに言っているだけではありません。ましてや、子供が働いてくださる親に言っているような単なる御礼の言葉でもありません。
それは米や野菜また魚や肉のそれぞれの命そのものに対して「私はあなた達(食品)の命を奪って、こうして自分の命をつないでいきます。私はその貴い命の犠牲を頂戴します(いただきます)。あなたの分まで生ききります。本当にありがとうございます。」という深い仏教の精神に基づく大変意味の深い言葉なのです。
それは全ての物、人、事に生かされていることへの深い感謝の心が連綿とつちかわれている日本文化のエッセンスなのです。
今日初めてこの本堂にお参りし、この話しを聴かれた方は、今日から家庭で職場で社会でこの食事の合掌と「いただきます」の命への挨拶を習慣にして下さい。そして、はきものを揃えることを通じて心を落ちつけ、人様に対する心配りのできる家庭づくり、自分づくりに務めて下さい。合掌
地球に額をつけて
祈るようになってから
地球が唱えている祈りが
わかってきた
ありとあらゆる人間を見つくし
知りつくしてきたこの地球の
どうにもならない業苦の声
それを知ってから
わたしは天に向って
唱えていた真言を
地球に額をつけて
唱えるようになった
地球の祈りを
わが祈りとするために
着物を着るなら善根と慚愧(ざんき)を衣服とすることを忘れず、大小便をするときは、心の貪(むさぼ)りと瞋(いか)りと愚かさの汚れを除こうと願い、高みに昇る道をみては、無上の道へ昇って迷いの世界を超えようと思い、低きに下る道を見ては、優しくへり下って奥深い教えへ入ろうと願うがよい。
また、橋を見ては、教えの橋を作って人を渡そうと願い、なげき悲しむ人を見ては、うつり変わって常なきものをなげく心を起こし、欲を楽しむ人を見ては、幻の生活を離れてまことのさとりを得ようと願い、おいしい食物を得ては、節約を知り、欲を少なくして執着を離れようと願い、まずい食物を得ては、永く世間の欲を遠ざけようと願うがよい。
また夏の署さの激しいときには、煩悩の熱を離れて涼しいさとりの味わいを得たいと願い、冬の寒さの激しいときには、仏の大悲の温かさを願うがよい。
経を誦むときには、すべての教えを保って忘れないようにと願い、仏を思っては、仏のようなすぐれた眼(まなこ)を得たいと願い、夜眠るときには、身(からだ)と口と意(こころ)のはたらきを休めて心を清めようと願い、朝目覚めては、すべてをさとって、何ごとにも気のつくようになろうと願うがよい。
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